閻魔と椿 幻想郷縁起異説

あきゅえーき

 

 

閻魔と椿 幻想郷縁起異説          椎野樹

 

 中有の道を抜け、三途の川へ至る。少しばかりの生者の人影も薄れ、辺りは彼岸へ向かう死者ばかりになっていた。
 ここには何度も訪れているが、相変わらず殺風景な場所だ。広々とした河原には少しばかりの枯れ木とススキが群生してるだけだ。渺渺とした三途の川は凪いで灰色の曇り空を映し、陰鬱な気分を更に塞ぎ込ませる。
 肩に食い込む雑嚢を背負い直し、目的の人影を探す。また、どこかで仕事をサボり、昼寝でもしてるのだろう。
 見つけた。周りの死者に不審な目で見られながらも大いびきで鼻提灯を作ってる。
「……小町さん? 起きて下さい」
 軽く肩を叩く。彼女はいびきで返した。鼻をつまんでみる。
「ふがっ」
 少ししかめっ面を作るが面倒臭そうに寝返りを打っただけだった。
 腹が立ってきた。辺りを見渡すと手頃な石がある。大丈夫だよね? 死神だから多少、無理をしても問題ないよね。
 私は、子供の頭ほどある石を両手で抱え、頭上までかざすと、サボり死神の腹へ叩きつけた。
「ギャン!!」
 飛び起きた小町は腹を抱え、辺りを転げまわった。私の姿を認めると、涙目でこちらを睨みつける。
「あ、阿求!? 何をするんだ! 人間だったら大怪我だぞ!」
「ちょっと映姫様の真似をしただけです。ほんとに何時もサボってるんですねぇ……映姫様に報告してもいいですか?」
 小町は宙に目を泳がせる。もじもじと手をいじり、窺うようにこちらを見る。
「やーそれだけはご勘弁を。これ以上減給されたら、あたい、木の根っこでもかじるしかなくなるんです」
 揉み手まで始めた卑屈な死神を横目に、私は溜息を付いた。
「いいから早く彼岸まで送って下さい。今回の異変についての報告を映姫様に行わないといけないんです」
 いぇっさーと小町は敬礼する。
 何だろうな、有能な死神なんだがあまりにもやる気がない。映姫が手を焼く気持ちがよく分かる。

 

 小町の小舟は三途の川を滑るように進む。さすがに本職だ。船を操る竿捌きは熟れている。
「草の根妖怪の異変、もう纏めたのかい? あたいは半年ぐらい後になるかと思ってたよ」
「今回は割と身近な妖怪ばかりでしたからね。家に資料は揃ってたんです」
「へー、仕事が楽そうでいいなぁ。あたいは肉体労働だからねぇ」
「そんなに大変なのですか?」
「まぁこんな仕事でも楽しみはあるんだけどねぇ。最近、外の世界の死神と友達になったんだ。すまーとふぉんって物を触らせてもらったよ。こんな経験、四季様でもできないよ」
 小町は、はにかんだ笑顔をこちらに向ける。単純過ぎるきらいはあるが善良なのだ。
「映姫様は今はどうなされてるのですか?」
「なーんも変わんないよ。いつも、しかめっ面でビシバシ悪人を裁いてるのさ。あたいにも仏頂面でさ、仕事しろとしか言わないんだよ」
 ふてくされる小町。成程、映姫は以前会った頃から全く変わっていない訳か。

 

 ……いや、初めて会った時からそうか。彼女はまだ稗田阿礼であった私にも高圧的な態度で応じていた。
 思えば、私もちっぽけな学識を誇るだけの若造でしかなかった。その後、学識を買われ、是非曲直庁で働くことになった後も彼女の頑なな態度は変わらなかった。
 だから、彼女が想いを伝えて来た時は驚いた。
 恐ろしく緊張した面持ちで、早口の事務口調でまくし立てる言葉は最初、意味がわからなかった。良く聞いて判断してみると、彼女は私に交際を申し込んでいたのだ。
 私は悩んだ。あまりにも立場が違いすぎるのだ。新任とはいえ閻魔と、人間から登用された文官とでは吊り合わない。しかし、彼女の真剣さに押され交際を受け入れたのだ。それから二人で隠れる様に逢瀬を重ねた。
 付き合ってみて気がついたことだが、彼女は感情の表現が極端に下手なだけなのだ。女性らしい柔らかい感性も持っている。しかし、職務に没頭するあまり、高圧的な態度しか表にでてこない。だが、彼女は傲岸な訳ではない、その水面下には菩薩のような慈愛が隠れているのである。
 しばらく立って後、私は幻想郷縁起を編纂するために転生を行うことになる。
 転生を初めて行った際、性別が変わってしまったのは驚いたが、今では慣れた。次の転生も女、その次も女だった。いつしか、私の転生は阿礼乙女という形で定着していた。
 映姫も初め、同性になってしまった私に戸惑っていたようだが、二人きりの時は以前と変わらぬ態度で接してくれる。
 あれからどれだけ経ったのだろうか? 転生を繰り返し、求聞持が生み出す膨大な知識に押しつぶされて、朧気になっていく自我の中でも、映姫の記憶は鮮明で薄れることがない。そしてたまらなく愛おしいという感情も。

 

「どうしたんだい阿求? さっきからニコニコしちゃってさ」
 いけない。顔に出てたみたいだ。
「いえ、ちょっと昔の事を思い出しただけです。それよりも、随分と経ったみたいですが、あとどれくらいで着くんですか?」
「うーん、四半刻ってところだね」
「そうですか……早く着かないかな」
 手をかざし水平線を見つめる私を、小町はおどけて真似して笑っている。私の心は既に、彼岸の向こうの愛しい人に向かっていた。

 

 彼岸を抜けて是非曲直庁へ到着した。物々しい名前ではあるが、非常に質素な作りの建物である。庁舎の周りには彼岸花が咲き誇り、彩りを飾っている。
 庁舎に入ると、死神や鬼達が忙しそうに書類仕事に勤しんでいる。
 私と小町は、そんな光景を傍目に奥へ向かう。
 他の設備と比べると荘厳な扉の前に立つ。小町は扉をノックした。
「四季様ー? 阿求さんをお連れしました」
 扉の奥から入りなさいと声が聞こえた。
「はいはい、じゃ、失礼しますよっと」
 小町と私は部屋に入った。内部は法廷になっており、裁判長席には彼女が佇んでいた。
 楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥ。一段と高くなった裁判長席から私を見つめている。
 私はしばし、見つめ合う形で彼女に見惚れてしまう。
 小柄で華奢ではあるが、姿勢を正しく保ち、谷川のような清冽さを保っている。長い睫毛の下には翡翠の様な双眸がある。その視線はぶれる事がなく、私の背後にある真実まで見抜こうとしてるようだ。慣れてはいるが今でも臆してしまう。髪型はアシンメトリーであるが、不思議と調和している。顔立ちは端正である。だが、それが却って裁かれる罪人の罪深さを意識させてしまうだろう。
 静まり返ってしまった法廷の沈黙を破ったのは小町だった。
「あれー、四季様、今日はなんか美人ですね。薄化粧までしちゃってるじゃないですか」
「……小町。持ち場に帰りなさい」
「えー、つまんないです。ちょっとぐらいいいじゃないですか?」
「小町、二度は言いませんよ?」
 小町は、頬を膨らませて法廷から出て行った。映姫は不機嫌そうに首を振ると、言葉を切り出した。
「さて、遠路はるばるご苦労でした阿求。今回の異変の報告は、諜報部も心待ちにして待ってました。予想していた以上に早く編纂が完了した事は素晴らしい。是非曲直庁幻想郷支部の長として礼が言いたい」
 映姫は制服の角帽を取って頭を下げる。
 映姫のよそよそしい態度に圧倒されてしまう。いや、分かっている。彼女が業務を行っている時はこうなのだ。慇懃無礼だと思えるほど礼節を怠らないのである。
「……いえ、これが私の仕事ですから映姫様。貴女のご期待に添えて嬉しいです」
「ありがとう。では早速、縁起の新章を頂けないでしょうか? 分析官に転記させましょう」
 映姫が手を打つと、扉から制服を着た死神達が入ってきた。私は雑嚢ごと資料を手渡す。
 映姫は顎に手をやり考え込む。
「さて、今回の異変は、小人族による幻想郷の力関係を転覆させる目的の物と言いましたね? 弱き者が見捨てられない楽園……ですか。被害は兎も角、その思想を無視するのは、司法を司る者として避けなければいけないでしょう」
「そうですね。彼女は天邪鬼に騙されて利用されただけです」
「情状酌量の余地はあるということですか。いずれにせよ死後までの行いで私は断じます」
 私は頷いた。映姫に任せれば幻想郷に最も適した判決を下してくれるのだ。私は信頼でもって映姫を見つめた。

 

 話が一段落した頃、映姫は独りごちる様に宙に視線を漂わせ、なにやら落ち着かない様子で話し始めた。
「……ところで今日はずいぶん遅いです。このまま帰ると夜が更けてしまいますね。宿は取ったのですか阿求?」
「いえ、映姫様」
「えっと……あー、うん。ならばしかたないですね。私の家に来て泊まらないですか?」
 露骨な咳払いをしながらジト目で合図をしてくる映姫。
「分かりました。そうしましょう映姫様」
 映姫の表情がぱぁっと明るくなる。
「そうですか、ならばしかたないですね。本来ならば仕事と個人的なことは分ける主義なんですがね。今回は特別に泊めてあげましょう。こんなことは二度と無いと思って下さい。あくまでも特別ですからね。分かっていますか? 私が一番嫌いなのは公私混同なのです! 四季映姫は天地神明に誓いましょう! 職務に私情は挟みません!」
 映姫は勢い良く起立して角帽を胸に当て、天を仰いだ。資料を書き写してた死神達は唖然として映姫を見つめてる。
……いや、かえって怪しまれそうなんだけどなぁ。でもあからさまに喜んでいるみたいだしツッコむのも無粋か。

 

 映姫と二人で、暮れゆく彼岸を映姫の家にまで歩く。辺りは帰路に着く是非曲直庁の職員がちらほらと見受けられる。
 映姫は相変わらず姿勢を正して、悔悟棒を胸に、前を直視して歩みを止めない。
 私はそんな映姫の側を離れない様に付いていた。映姫は、頑なに私の存在を無視するようにずんずんと歩いてゆく。手をつなぐぐらいはしたいのだが、離されない様に付いて回るのが精一杯だ。
「映姫様? ふたりきりなんだからもうちょっとゆっくり歩いていきませんか?」
「……」
 映姫は剣呑な表情でじろりと睨み上げる。
 ……いや、これ以上は余計なこと言うのは辞めよう。またお説教が始まってしまう。

 

 映姫の邸宅は、思いの外、慎ましやかな平屋だった。閻魔の住む邸宅としては簡素すぎる。白玉楼や紅魔館を見慣れている私としては、もう少し立場に見合った住居に住んでも良いと思う。たぶん、映姫の潔白さがそれを良しとしないのだろう。
「帰りました」
 奥から女中が走ってくる。映姫は手に持っていた書類かばんを渡す。
「お帰りなさいませ、映姫様」
「あぁ、今日は客人を招いている。夕餉はすこしばかり豪勢にしてください」
「わかりました」
 荷物を受け取った女中はしずしずと奥へ帰ってゆく。映姫は肩肘張った姿勢を少しだけ崩す。私はなんだか気を使わせてしまって申し訳ないような気分になっていた。
「あの……映姫様?」
「阿求。その堅苦しい呼び方をやめて下さい」
 彼女は初めてこちらを向いて苦笑して首を振った。
「前会った時からどれぐらい経ったのかな阿求? 私は随分と待ちわびてた気がします」
「映姫……私もです。だから今回の旅は不謹慎ながらわくわくしてました」
「不謹慎、全く不謹慎ですね。ですが私達はこうでもしないと会えない。今は素直にそれは喜ぶとしましょう」
 なし崩し的に映姫は笑顔を作る。私も釣られて笑っていた。

 

 夕餉が出来るまでにしばらく時間が掛かるという。その間に風呂に入るように映姫は指示をだした。たしかに、長旅で旅塵に塗れている。湯浴みでもしたいと思っていた所だ。
 脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入る。
 浴室は、檜造りで質素なこの家にしては手間を掛けているようだ。檜の程よい香りが漂っている。浴槽には清潔な湯が張られている。
 さて、手早く身体を洗うとしよう。石鹸を泡立てて身体に塗ろうとした時、脱衣所から物音が聞こえた。
 ふと手をやめて物音に耳を済ませていると、さらりさらりと衣擦れの様な音が聞こえる。
「阿求。やはり私も一緒に入ることにしました」
 脱衣所から聞こえたのは映姫の声だった。
 激しく動揺してしまう。いくら長い付き合いでも肌を見せるのには抵抗がある。
「え、映姫! 駄目です!」
「別にいいではないですか……同性なんだから」
 ガラリと浴室の戸が開かれた。
 そこには、手ぬぐいで隠しただけの裸体の映姫が居た。余計な肉付きの無い華奢な肢体をしているが、育つべき所は意外と発育している。すらりとした手足は全身との調和が取れていて、彫刻の様な美しさがある。私は寸胴だから軽く嫉妬してしまう。
「…………何をじっとみてるのですか」
「いえ、美しいなと感じてしまったのです」
「阿求。貴女はすこし好色過ぎるのではないですか? そんな目で見られると緊張してしまう」
「あぁ、す、すみません」
 慌てて目をそらした。だが脳裏には映姫の白い肢体が焼き付いている。求聞持の能力はこういう時に困ってしまうのだ。
 映姫は私の側に腰掛けると、手桶で身体を流した。私は先ほどの緊張から動けないでいる。
「阿求、背中を流しましょう」
「は、はい」
 慌てて映姫に背を向ける。先ほどの光景を忘れるように忘れるようにと念じながら映姫が背中を流してくれるのを待っていた。
 だが、次の瞬間襲ってきたのは背中を洗う湯の感覚では無かった。映姫は後ろから手を回して私の身体を抱きしめた。
「え、映姫。何をしてるのですか!?」
 首だけで後ろを振り返ると、そこには顔を赤らめて泣き出しそうな表情の映姫がいた。震え声で呟くように話し始める。
「……私は待った。待ち続けていた。この一日一日が数万年に思えるぐらい、呆れるほど私は想いを募らせていた。嫌われていたらどうしようかと思った」
 啜り泣く声が聞える。参ったな。映姫はまだ私を抱きしめたままだ。背中からは、ほのかな体温が伝わってくる。柔らかな双丘が押し付けられる感触もたまらない。真剣に答えたいのだが、どうにも集中力が散逸してしまう。
「わかっています。ただ、お互いに忙しい身ですからね。自由に行き来できる訳でもないのです」
「わかっています」
「ねぇ映姫、私達は離れてはいるが心は繋がっている。なぜ、そこまで不安を感じないといけないのですか?」
「……ただ、寂しいだけです。お願いだからもう少しこのままで居させて下さい」
 私達はそうしてしばらく座っていた。

 

 映姫はたまらなく愛おしい。そんな彼女に不安を与えてしまう己に不甲斐なさを感じる。
 私は不安になる。幻想郷縁起を形にするために転生まで行い、性別まで変えてしまった。少女同士の恋愛はどこか不器用で、すぐに解けてしまいそうになる。本来ある自然の摂理に反しているのだ。己の欲望を形にするために摂理まで捻じ曲げた私は裁かれなければならなかったのだ。
 私を裁く閻魔が居ない今、私はどうやって罪を償えばいいのだろう。

 

 私に配膳された夕餉には約やかながら、贅が尽くされている。蕗の香の物、松茸の吸い物に鮎の塩焼きまで付いている。一方、映姫の膳は素食だ。彼女は普段から贅沢を排する為に素食で通してるのだという。
 夕餉を終えて、私達は早々に床に就く事にした。
 並べられた布団に横になりながら、取り留めのない無駄話に花を咲かせる。天井を見上げて、映姫の小町への愚痴を聴く。
「――それだけならばまだ謝ればすむのですが、人里の殆どの酒屋でツケを残してるのです。しかも、それを是非曲直庁の名義で行っているのですよ? 私が直々に口を利いてやらないと懲戒免職ものの失態になるところでした」
「それは……大変でしたね。こちらでも大変なことがあったんですよ。小人族の話はしましたよね? 異変解決後、博麗神社の財政に窮した霊夢さんが、小人族の秘宝を強奪しようと企んでいる事が分かったんですよ。『賽銭箱を一杯にするだけだから、ちょっとぐらいいいでしょ』との事でした。駆けつけた魔理沙さんと咲夜さんに弾幕勝負を挑んで、敗れた後も暴れるので、羽交い絞めにされて終わりました。いやはや、新たな異変が起こらなくて良かったです」
 映姫はクスクスと笑う。やった、今のは自信作だったのだ。
 会話が止まり、二人の間に沈黙が流れる。
 映姫は私の目をじっと見つめる。とても真剣な眼差しだ。私はその視線を受け止める。しばし見つめあった後に映姫は切り出した。
「阿求。転生をやめて、一緒に暮らしませんか?」
 映姫は唇をきゅっと結び、哀願するような目つきでこちらを見つめてる。
 月夜が障子を通して柔らかな光を落としている。障子の隙間からは、一条の光線が二人の間を分かつ様に射していた。とても静かな夜だ。
 私は、ゆっくりと身を起こした。
「……私は、幻想郷で起こる遍く事象を読み取り、民を守る縁起を編纂する為に、貴女に魂を預けたのですよ映姫? 貴女がそんな風ではどうするのですか」
 自分自身で話す言葉が、こんなに乾いた響きをする事に驚いた。
 映姫。そんな悲しそうな顔をしないでください。私は罪深い。本来ならば貴女に愛される資格など無いのだ。

 

 ねぇ映姫。二人が出会って千年以上の時が過ぎた。その間、何度もの転生を行って異なる姿で貴女と再会した。それでも貴女は私に変わらぬ慈愛を与えてくれた。
 だけれども、私は思う。私達は過ちを犯したのだと。やはり、御阿礼の子などと言う方法は禁忌でしか無かったのだ。
 貴女を強く抱きしめたい。その不安を払拭してあげたい。しかし、この脆弱な少女の肉体ではそれも叶わない。私は、どうしたら貴女を幸せにする事ができるのだろう?
 あぁ、ようやく気が付いた、これが私に与えられた罰だったのか。
 永劫に回帰し続ける世界の中で、たった一つの真実を目の前にしながら、手を出すことも叶わない。
 映姫は果てしなく美しい。しかし、硝子張りの部屋に閉じ込められた様に、私には見つめることしか出来ない。
 揺蕩う刻の中で罪の意識に焼かれ続ける。これはまるで煉獄だ。
 ねぇ映姫。私はどうすればいいんだろう?

 

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 私は一人、執務室で書類に向かっている。時刻はやがて巳の刻を半ばまで回ろうとしている。
 落ち着かない。阿求がまだ彼岸に居るという事実だけで、足元がふわふわするような感覚に囚われてしまう。
 本当なら、職務など放り出して彼女の元へ飛んで行きたくなるのだが、是非曲直庁の責任者としてそんなことは許されない。
「……ふむ」
 万年筆を放り出して、椅子から立ち上がる。窓際まで歩き、裏庭を眺めた。
 裏庭では、竜胆の花が咲き誇っている。
 この裏庭は私が管理しているものだ。土質が極端に悪い彼岸では、彼岸花しか自生しない。私は特別に許可を貰い、土を入れ替えて他の植物も育成できる様にした。時折、気分転換で土いじりをしている。
 室内は、ホールクロックが時を刻む音しか聞こえない。快い静寂だ。
 私は、昔のことを思い出してしまう。これも阿求が訪れてくれた為だろう。二人の出会いの光景が脳裏を占めていく。

 

 初めは罪人としか見てなかった。次にいけ好かない奴だと思った。そしてどうしようもなく気になる存在になり、何時しか愛するようになっていた。

 

 私はまだ、成りたての見習い閻魔だった。先輩たちに司法が何たるかを教わりながら、是非曲直庁の書類整理などを行っていた。
 ある時、十王裁判を見学する機会に恵まれた。
 被告人は、古事記を編纂した著名な編纂者なのだという。名を稗田阿礼。生前の功績を讃えられ、天照大御神によって神に抜擢されたのに恐れ多くも拒絶したらしい。
 是非曲直庁全体がピリピリした空気に包まれている。天照大御神から、即座に無間地獄に落とせと強要されているとのことだ。稗田阿礼の裁判では、特例的に十人の閻魔王全員を集めて一度に聴聞を行うのだという。
 十王裁判が始まる。私は傍聴席に居た。
 裁判官席には、秦広王・初江王・栄帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王と、全ての十王が並んでいる。
 地獄の獄卒に引き立てられながら、稗田阿礼が法廷に入ってくる。
 どんな極悪人が入ってくるかと思っていたが阿礼は、線の細い、どこか飄々としているが朴訥な青年だった。
 まぁ人間は見た目ではないだろう。いずれにせよ、閻魔の裁判では生涯全ての罪が暴かれる。ましてや十王全員が揃っているのだ。あの青年はすぐさま丸裸にされて無間地獄に叩き落とされるはずだ。

 

 十王裁判はおかしな方向に進んでいた。
 浄玻璃の鏡で生前の行いを検索して、本人が気付いていない罪を告発するのが、閻魔の常套手段である。だが、阿礼は生前の全ての行いを記憶していて、訥々と弁明するのである。しかもその全てが合理的であり、矛盾点が見つからない。
 これには十王も混乱しているようである。天照大御神からの要請である。なんとか無間地獄に落とさないといけない。しかし、咎める事が出来ないのである。
 五道転輪王は考えこんでいるようだ。やがて咳払いを一つして威厳あるバリトンで朗々と弁じた。
「稗田よ、一つ問い質したい事がある。何故、天照大神からの誘いを断った? 神にしてやろうと言ってるのだぞ? 人間の身には余る光栄のはずだ」
 俯き加減だった阿礼は、五道転輪王からの問いかけを受けて面を上げた。
「……私が生まれた村では、度あるごとに天災が起きて飢饉になっておりました。原因を調べてみると、神々の些細な諍いから天災が起こっていたのです。荒ぶる神を治める手段を研究した結果が古事記でした。私は気付いてしまったのです。神々はあまりにも人間臭く、人間が持つ業から逃れられないでいる。神々の気まぐれで、多くの人間が死んでゆく。私は、そんな神々であるよりは、人間でありたいと思ったのです」
 阿礼の弁論を聴いて、五道転輪王は溜息を付いた。
「……なぁ稗田よ。なぜそれを天照大神に直接伝えなかった?」
「右大臣様より伝達を受けたので、そのご返事でお伝えしました」
 やれやれと五道転輪王は首をふる。振り返ると十王を招き寄せる。十王は喧々諤々と議論を行った。
 やがて議論が纏まった様だ。五道転輪王は木槌を叩き、威厳ある声で弁じる。
「稗田よ、僅かばかりの学を鼻にかけて調子に乗ったな。お前は閻魔王の元で永劫にタダ働きだ!」
「ありがとうございます。精一杯務めさせて頂きます」
「……もういい、連れて行け」
 木槌が打たれ、十王裁判は閉廷した。

 

 私は、驚嘆の思いでそれを見ていた。
 あの稗田阿礼という青年は、天照大御神と十王、その両方に逆らって、殆ど無罪と言っていい内容を勝ち取ったのである。
 私には五道転輪王様の判断は理解できなかった。阿礼は古事記の編纂者とはいえ、ただの人間である。閻魔がその気になれば地獄に落とす事は出来たはずだ。温情を与えるにしても是非曲直庁で働かせるのはやり過ぎではないか?
 私にはまだ分からない。だが五道転輪王様は何かが見えていたのだろう。

 

 次の日から稗田阿礼は是非曲直庁で働く事になった。配属先は閻魔王の下、つまり私と同僚になるのである。
 阿礼はめきめきと本領を発揮した。一度見た事は即座に答える事が出来るのである。書類作業で阿礼は強力な存在になった。閻魔王様も密かに重宝している様だ。
 一方、私は焦っていた。地蔵から閻魔に成りたての私は、周りから軽く見られないように睡眠時間を削ってまで業務に励んでいたのだ。
 ところが、阿礼が現れてからというもの殆どの業務を阿礼がこなしてしまうのである。いつからか私は、阿礼を敵視するようになっていた。

 

「ふう……」
 私は是非曲直庁の裏庭で休憩していた。午後を少し過ぎた時間でうららかな日差しが差している。
 最近は、ここを訪れる頻度も多くなっている。阿礼が業務の殆どを処理するお陰で閻魔王配下は暇ができているのだ。
 苛々する。ちょっとばかり仕事が出来るからといって私の仕事まで奪わないで欲しい。少しばかり皮肉でも言ってやろうかと思ったこともあったのだが、人当たりが柔らかいので職場でも人気者なのである。そんな阿礼に辛く当たれば、私が悪人ではないか。
 持ってきた水筒を開く。傾けて喉を潤そうとした時、足元にあるものを見つけた。
「……これは」
 乾いた土の上に一本の花木の苗が生えていた。珍しい。この辺りは彼岸花しか生えないのだが、どこからか種が飛んできたのだろう。
 だが、環境が悪すぎる為か萎れかけている。このままではすぐに枯れてしまいそうだ。
 私はなんだか見過ごしてはいけない様な気持ちになっていた。
「お前もがんばりなさい」
 手持ちの水筒を傾けて、苗に水をやる。
 うん、さっきよりは元気になったみたいだ。
 背を伸ばし、欠伸をする。
「……ふぁー」
 やれやれ、そろそろ職場に戻らないと行けないだろう。また阿礼の顔を見ないといけないと思うと少しだけ億劫だ。

 

 裏庭で名も無き苗木に水を遣るのは日課になっていた。苗木は萎れかけていたが、どうやら立ち直った様だ。今では新芽を出してすくすくと成長している。
 私は、苗木にその日あったいろいろな事を話しかけていた。
 仕事でヘマをして閻魔王様に怒られた事。先輩たちに色んな事を教わった事。そして、相変わらず阿礼が気に食わない事。
 苗木は私の言葉に答えるように風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。思わず微笑んでしまう。可愛い奴だ。

 

 いつものように休憩時間に裏庭に向かう。
 今日は久々に腹が立つことがあった。書類を提出したのに閻魔王様は阿礼の書類の方を優先したのだ。抗議したが受け付けられなかった。その場に阿礼も居たのだか、何事も無い様な涼しい顔をしていた。
 苛々する。今日もあの苗木に聞いてもらおう。裏庭まで歩いてゆく。なんだ? 今日は裏庭に誰か居るようだ……。
 苗木の前に誰か立って居る。よく見ると、それは、阿礼だった。
 げっ、と思わず口に出してしまう。苦々しい気分が胸の中に広がる。
 私は何事も無いような平然を装って、阿礼の元へ歩いて行った。とびっきりのしかめっ面を作って言葉を出す。
「何をしてるのですか!」
「……貴女でしたか。いえ、珍しい植物が生えているので、つい見惚れてしまったのです」
 阿礼はしゃがみ込んで、苗木を見つめてる。ムカムカする。それは私の苗木だ。たかだか人間が、ここに踏み込んで来るのは許されない。
「さっさと持ち場に戻りなさい。阿礼。貴方と閻魔王の契約は永劫のタダ働きなのよ?」
「私が気に食わないなら、直接言葉にしてもらっても良いのですよ映姫様? 少なくともこんな所でこそこそと独りごちる必要はない」
 見られていた! しかも、阿礼への悪口を聞かれていたのか!
 顔が火照る。こんな屈辱は初めてだ! 思わず感情的に叫んでしまう。
「仕事が出来るからって調子に乗らないで! 貴方はただの人間なのよ。閻魔に逆らうことは許されない!」
 阿礼は激高した私の言葉を、涼しげに受け流す。
「ふむ、それもそうですな。失礼した映姫様。あまりにも大事に育てているから、つい目に止まってしまったのですよ。別に他意はございません」
 飄々と阿礼は頭を下げる。気に食わない。まるで馬鹿にされてるようだ。
「それでは失礼します映姫様。あぁそれと、肥料をやった方がいいですよ。少し、栄養不足になりかけている」
 言いたいことだけ言い終えると、阿礼は裏庭を去った。
 私は肩を震わせながら一人裏庭に立っていた。絶対に許さない! 私が司法の場に立てる様になったら、地獄に叩き落としてやる!

 

 私はその日から、阿礼を徹底的に無視するようになった。
 同僚たちは、どこか心配げに私達の様子を見守っていたが、業務に支障が無いことが分かると、やがて慣れてしまった様だ。
 苗木は少し元気をなくしてたのだが、肥料を与えると元気になった。今ではつぼみを付けて花を咲かせようと用意している。
 阿礼が言っている事はいちいち正論だったのだ。気に食わないが。
 それから数日は、何事も無く日常が過ぎていった。

 

 ある日、是非曲直庁の周辺に嵐が訪れようとしていた。
 空を見上げると、黒々とした雲がとぐろを巻いている。風が強くなり亡者の悲鳴の様な風音を立てている。今夜、嵐はここまで到達するのだという。
 私は、苗木が心配で気が気でなかった。今すぐにでも駆けつけて行きたいが、勤務時間中である。もうすぐ勤務が明ける。すぐにでも裏庭に行ってみよう。

 

 勤務が明けて、私は裏庭に駆けつけた。
 轟々と風が吹き。苗木も吹き飛ばされそうになっている。
 いけない。私は苗木の前に立ち、風を遮った。なんとかカバーすることは出来るようだ。
 半刻程経って、次は雨が降り出してきた。冷たい氷雨が横殴りに叩き付けてくる。
 制服のブラウスが肌に張り付く。背中に弾丸のような雨粒が突いて来る。
 寒い。風と雨に体温を奪われている。嵐は何時になったら通り過ぎるのだろうか? 辺りはもう真っ暗である。暗闇の中で私は訪れない夜明けを待っていた。
 また一段と風が強くなった。背中を丸めて吹き飛ばされない様にする。
「……?」
 何故か急に風が弱まったようだ。雨も先ほどまでの勢いがない。
「……貴女は、一体なにをしているのですか?」
「えっ!」
 振り返ると、体を張って風と雨を遮っている阿礼の姿があった。
 何故? また私を馬鹿にしに来たのか?
「全く……、勤務が明けてすぐに裏庭に走っていくからひょっとしてと思ったのですよ。嵐は朝まで続くそうです。ずっとそうしてるつもりだったのですか?」
「うるさい! お前には関係ない! 邪魔をするなら何処かへ行け!」
「貴女は、聡明なのに行動が感情的すぎる」
 阿礼は、私と苗木を合わせて抱え込む様に後ろへ立った。
「朝まで私も付き合います。身体が冷え切ってるでは無いですか。このままでは貴女まで危険だ」
 濡れたブラウス越しに阿礼の体温が伝わってくる。体温が高いのか少し熱い。線が細いはずなのに意外と広い胸幅をしている。
 大嫌いな阿礼に抱きしめられているのに嫌悪感は不思議と無かった。
 彼の人となりが分かった気がする。彼は大樹の様に年輪を重ねた性格をしているのである。私の持つちっぽけな虚栄心など、彼にとっては対した問題じゃないのだ。
 熱い涙が頬を伝う。何故だろう、私を縛っていた全ての鎖が解けていった様だ。
「どうかしたのですか映姫様?」
「……なんでもない!」
 阿礼の顔が直視できない。心臓が早鐘を打っている。あぁ、こんなに密着してる。気付かれたらどうしよう?

 

 嵐は通りすぎて、やがて橙色の朝焼けを迎えた。昨晩の喧騒が嘘だったように静かな朝を迎えていた。二人共、ドブネズミみたいに上から下までぐしょぐしょだ。朝の清らかな空気が少し冷たい。
 苗木はなんとか守り切った。風に揺られてゆらゆらと揺れている。良かった、枝葉も無事だし、蕾も取れていない。あの嵐を乗り越えたのだ。
「やりましたね映姫様」
「…………」
 そんな真っ直ぐに見つめないで欲しい。つい、視線が泳いでしまう。
 こっそりと阿礼を窺い見る。朴訥とした青年でしかないと思っていたのが、凛々しさと涼やかさを併せ持つ意外な一面を見た。
 阿礼は不思議そうな表情でこちらを見ている。
「映姫様、顔が赤いですよ? 熱でもあるのでは無いですか?」
 阿礼は手を私の額に当てる。
「!!」
「……やはり凄い熱だ。顔が真っ赤ですよ。早く家に帰って休んだほうが良い」
 私はこくんと頷く。一刻も早くこの場を離れたい。これ以上、阿礼と共に居るとどうにかなってしまいそうだ。
 阿礼は訝しげな表情で佇んでいた。……人の気も知らずに……やっぱり小憎らしい奴だ。
 己の中の感情に驚いていた。まさか、閻魔の私が、こんな人間の若造に恋をしてしまうなんて。

 

 不意に没入してた思考が引張戻される。何者かが扉を叩いている。
 小町だ。扉の外でがなり立てている。
「四季様ー。阿求を迎えに行ってきますよー。午後には船着場ですからね、忘れないでくださいねー?」
「早く行ってきなさい!」
 まったく! 思い出が中断してしまった。
「……ふう」
 椅子に腰掛けると、引き出しの一番奥から小箱を引っ張りだす。執務机の上に箱を乗せて、蓋を開く。
 中には、大輪の椿の花が一輪入っていた。あの時の苗木の花だ。特殊な薬液に漬けてプリザーブドフラワーにしている。
 あの時の苗木は椿の木だったのだ。蕾は数日して綻びて、大輪の純白な椿の花を咲かせた。
 私は、それを泣き出さんばかりに喜んだ。阿礼も一緒になって喜んでくれた。
 二人にとって、椿は特別な花になった。
 阿求が今付けている椿の花飾りは、私が阿一の頃に送ったものだ。転生したばかりの阿一はガサツな少女だった。少しは女の子らしい振る舞いでも覚えて欲しいということから椿の花飾りを送ったのだ。それから千年以上も大事そうに身に付けているのだから、逆に物持ちの良さに呆れてしまう。
「ふむ……」
 転生した阿礼は幻想郷縁起の編纂に全てを捧げてきた。今でこそ、幻想郷縁起は妖怪たちの自己PRの場となっているが、初期の頃は、人間達が生死を賭して、妖怪の成り立ちや弱点を研究した書物だった。
 八雲紫。あの忌々しい妖怪の賢者。随分と丸くなったのだが、未だに胡散臭い。幻想郷縁起は、私が八雲紫に対抗する為に阿礼に要請して書かせた物だ。
 沈思黙考する。再び思考は千年以上の時を駆ける。

 

 私が、幻想郷という新興の世界の担当になったのは阿礼と付き合い始めて随分と経った後だった。
 閻魔王様から話を伺う所、八雲紫なる人物が、結界を使い、新たに立ち上げた世界なのだという。未だに閻魔が居なくて、無法地帯になっているとのことだ。
 軽く浮かれていた。新興の世界とはいえ、司法の場に立つことが出来る。しかも、その世界の是非曲直庁支部の責任者への栄転だ。
 私は快諾した。阿礼の事が気になったが、暫くの間は幻想郷支部に出向するということで話が纏まった。
 私はまだ理解してなかった。阿礼ほどの有能な人物を送り込む幻想郷という世界がどんなに厄介な案件なのかということを。そして後々になって軽率だったと後悔した。

 

 着任して初めに手を付けたことは、死者の魂からの事情の聞き取りを徹底することだった。
 事情を聞き取ってみて驚いたことは、殆どが外の世界から迷い込んだ人間の魂だったことだ。
 いろんな魂から意見を聴いて察するに、八雲紫という者は、外から連れてきた人間を餌に、強い妖怪を幻想郷にかき集めて放し飼いにしているのだ。
「はぁ……」
 眉根を揉んだ。この人物は何を考えているのだ? 人間の魂を軽々しく扱い過ぎだ。一度、出向いて説教してやらないといけないだろう。

 

 私と阿礼はマヨヒガを訪れた。
 森林を抜けた先には、広大な隠れ里が広がっていた。一見無人の里に見えるが、気配を消して妖怪達が潜んでいるのが分かる。なんだこれは? 物々し過ぎる。まるで、戦争でも起こそうという数の妖怪達が住んでいるではないか。
 ますます八雲紫と言う人物が、よく分からなくなる。調査によると、妖怪達の強い支持を受けた元締めのような存在なのであると言う。
 里の最深部に八雲屋敷がある。
 辺りは深々として虫の音すら届かない。屋敷は深い沈黙を纏っており、本当に人が住んでいるのかどうかすら怪しいものだ。
「すまない、主人は在宅か?」
 阿礼が、玄関先で呼び掛けるが反応が無い。
 光源が無い室内は、殆ど暗闇だ。呼び掛ける声も闇に吸い込まれていく。
「……反応がありませんね。本当にここに住んでいるんですかね?」
「……」
 私は茅葺きの屋根を見上げた。虚しくなるような青空の下、存在だけは確かに有ることを示している。
「……仕方ない。出直すことにしよう」
 帰ろうと思い、阿礼に話しかけた時、その声はした。
「客人か?」
 慌てて振り返ると、暗闇のなかに蒼白な顔が浮かんでいた。よく見ると大陸の式神の服を着た従者の様だった。
「客人か?」
 従者は再び問う。
「映姫。あれは……」
「分かってる。九尾の狐だ」
 亡国の妖狐、白面金毛九尾の狐。大陸で猛威をふるい一国を滅亡させた。そんな者を従者に使っているのか。
「是非曲直庁から訪れた、閻魔の四季映姫という者だ。主人の八雲紫にぜひ会いたい」
「……承知した。暫し待たれよ」
 九尾の狐は暗闇に溶けるように消えた。
 ……九尾の狐を式神にしているのか? 尋常ではない。調伏するだけでも恐ろしく力を使うはずだ。それをほんの軽輩の様に扱っている。非凡などと言う類ではない、禁忌に近い方法を取ってるはずだ。
 暗闇の中から、再び九尾の狐が現れる。
「会うとの事だ。付いて来られよ」
 九尾の狐はしずしずと歩いてゆく。私達は、その後に付いて奥へ進んだ。

 

 奥にある床の間で、私達は待たされた。縁側の向こうには整えられた庭園がある。美しいのだが音がない。全くの静寂だ。
 気取られない様にはしているが、不安になってしまう。マヨヒガ、九尾の狐、八雲屋敷。それらを見る限りでも八雲紫は尋常ならざる人物で有ることが分かる。まぁ、話せば何とかなるだろう。
 音もなく襖が開く。九尾の狐が三指をついて現れる。
「お待たせいたしました。紫様が参りました」
 九尾の狐の後ろから、一人の女性が現れる。大陸から来たのか? 式神と同じく大陸の服を纏っている。見た目の美しさとは不相応な剣呑な気配を漂わせている。切れ長の目でもって流し目でこちらを観察しているのだが、ニヤニヤと笑いながらするそれは不遜さを感じさせる。
「……貴女が新任の閻魔様? まぁ、可愛らしい人が来たものね。仲良くしましょう。何か困ったことがあったら私を頼りなさい」
 八雲紫はうっすらと目を細め、口元を扇子で隠し、笑顔を作った。
 私は、この人物は心を許してはいけないと、直感的に理解した。目をしっかりと見ればその人物の人となりが分かるのだが、八雲紫は混沌そのもの。闇が深すぎて奥まで全く見通す事ができないのだ。
「私は、今日は貴女を説教に来たのです。貴女は妖怪達の長なのですよね? 人間の扱い方を改めて欲しい。まるで放し飼いの獣に餌をやるように人間を攫うのはやめなさい」
 八雲紫のニヤニヤ笑いが一層強くなる。
「まぁ……、閻魔様は随分と人道主義なのですね。ねぇ映姫様。人間などあっという間に増えますわ。ゴキブリよりも生命力が強い生物ではないですか?」
「……貴女、幻想郷から人間が居なくなったらどうするつもりなのですか?」
「外から拐って来たら良いではないですか。考えるだけ詮なき事です」
 甘えたような声で八雲紫は話しだす。
「ねぇ映姫様。是非とも閻魔様に協力してもらいたい事があるのですわ。この度、私達はあの憎たらしい月人の元に攻め入る事を決めたのです。地獄からも援軍があると心強いですわ」
 私は、激情を面に出さないようにするのに必死だった。成程、こういう人物だったのか。阿礼も、隣で心配そうに見つめてる。分かってる。だが、こんな奴にはガツンと言ってやらないと駄目だ。
「……八雲紫。貴女は一体何様のつもりですか? 妖怪の性とはいえ、絶滅しそうになるまで人間を攫い、挙句の果てには戦争を始めるつもりですか? あまりにも傲慢過ぎる。彼岸に来たらそれなりの裁きが下されると覚悟しておきなさい」
 八雲紫は表情を変えず、ニヤニヤと笑いながら受け答える。
「あらまぁ、怒っているのですか映姫様? 私はただ妖怪達の理想の楽園を作ろうとしてるだけです。金子ならいくらでも用意することはできますわ。悪い条件ではないと思うのだけども?」
 私は、勢い良く立ち上がる。
「帰りましょう! 阿礼!」
 阿礼は、はぁと応じて立ち上がる。苦々しい顔をしている。分かっている。だがこれ以上コイツと話すのは耐えられない。
「藍、マヨヒガの入り口までお見送りしなさい。あぁ、そうそう、その男は映姫様の想い人だから食べちゃだめよ」
「……承知しました。紫様」
 私は八雲紫を睨みつける。相変わらず底が見えない目で口元を隠して笑っている。

 

 マヨヒガから抜けだした私達は、林の中を彼岸へ向かって歩いていた。
「くそ、何なんだアイツは! あれを本気で言ってるのですよ! 信じられない!」
「映姫、少しは落ち着いて下さい」
 大股でずんずんと歩く私の後ろを、阿礼は腕組みをしながら歩く。
「それにしても困りましたな映姫。妖怪達を止める手段は無いようです」
「……どうすればいいかな阿礼?」
 阿礼は考え込む。やがて、口が重い様だが語り始める。
「幻想郷に住まう人間の民達に、知識を与えるのがいいのでは? 私が以前やったように妖怪に対応する知識を書籍にして纏めるのが一番有効です」
「……古事記ですか」
「そうです。あれは荒ぶる神々に対する手段でしたが、幻想郷では妖怪に対してそれを行えばよい」
 私は足を止めて振り返る。
「それはいい方法だと思う。だけど誰が行うんですか? 人間達と共に居て、妖怪を観察する者が必要でしょう?」
 阿礼は俯き考え込む。少し青い顔をしている。やがて億劫そうに口を開く。
「私が行くしか無いでしょう。映姫が協力してくれるなら、転生を行い、幻想郷の民として生まれ変わる事ができます」
 それは……!
「……駄目です!」
「……何故ですか? 今こうしている間にも妖怪に命を奪われている民がいる。それをみすみす見過ごすのですが」
「阿礼。お前は本気で言っているのですか? 転生を行えば私達は長い間会うことができなくなります。それに、お前が殺されるかもしれない場所に送り込むなんて、私にはできない!」
 阿礼は首を振った。
「映姫。私は元々、罪人だった。それを貴女は愛してくれた。貴女は幻想郷を悪辣な妖怪から守らなければならない。私はその手助けをしたいのです」
「阿礼……」
 私は揺れていた。私は幻想郷の閻魔である。職務の上では、阿礼の選択は間違いなく正しいと言うことは分かっている。だが、転生を行えば、阿礼の生は過酷なものになることがはっきりしていた。
「阿礼……私は……」
「分かっています映姫。ただ貴女はこの世界の最高責任者なのです。成すべきことは分かっているはずです」
「……」
 何も、言えなかった。

 

 阿礼を転生させるために、私は是非曲直庁を走り回った。膨大な資料をまとめ、十王様の許可を取り付けた。そうして稗田阿礼は転生した。
 しばしの時が経った。

 

「お久しぶりです映姫様」
 法廷で私は稗田阿一と向かい合っていた。阿一は少女である。紅紫色のおかっぱ頭には、私が与えた椿の花飾りが揺れている。大きな瞳でこちらをじっと見つめてる。
 調子が狂ってしまう。転生前から分かってたとはいえ、阿一は私よりも可憐な少女に生まれ変わってしまった。
「……貴女が見た幻想郷はどうでしたか? 幻想郷縁起の噂は聞いています」
「えぇ、民を纏めるには苦労をしましたが、今では集落を一つ作り、発展に力を費やしている所です」
「素晴らしい功績を残しましたね。次の転生まではこちらで寛いでいなさい」
「ありがとうございます。映姫様」
 私と阿一は見つめ合う。見た目は可憐になってしまったが本質は変わっていないようだ。
 その後も、阿礼は幻想郷の人間達の為に尽くし、やがて人里を創設し、安定した環境を作り上げた。

 

 考えこんでいる間に、時は午の刻にまでなってしまったようだ。そろそろ休憩時間か。午後からは阿求の見送りに行かなければならない。
 しかし、なんだろう? 一つの不審な点があった。私はまた考えこんでしまう。
 阿一、阿爾、阿未、阿余、阿悟、阿夢、阿七、阿弥、そして阿求。
 その全てが阿礼乙女として少女への転生だった。
 何故だ? 少女へと転生しても変わらぬ阿礼にあまり気に留めた事も無かったが、ここまで阿礼乙女への転生が続くのは異常だ。
 疑問は不安になり、むくむくと頭をもたげる。
 私は立ち上がり、本棚に向かった。
 私は御阿礼の子の資料を本棚から取り出した。阿礼乙女の条文を見つけて目を走らせる。
 ……これは……。
 天照大御神の右大臣の要請で、阿礼の転生は阿礼乙女のみで行われる事が特記されている。
 どこで嗅ぎつけた!? 天照大御神の右大臣は嫉妬深い事で有名だ。恐らく阿礼に神になることを断られたことを何百年も根に持ってたのだ。しかし、天界は是非曲直庁で行われることまで目が及ぶはずがないのだ。特に阿礼の転生は極秘事項だ。
 そこで私はあのニヤニヤ笑いを思い出す。八雲紫! あの女が天界に密告したのだ。
 これは……呪いだ。
 恐らく、少女同士が睦み合う姿を見て、どこかで嘲り笑っているのだろう。
 喉から声が漏れる。少しずつ大きくなっていくそれは、哄笑となって執務室に響いた。
 背もたれに勢い良く体重を掛けた。
 成程、やられたよ八雲紫。こういうやり方もあるのか。
「……許してください阿礼。私はあなた一人も守る事ができない」
 自分の発した言葉に心が動じてしまう。瞼を焼くような涙が溢れた。

 

—————————————-

 

 小町は舫い綱を解き放ち、岸辺にそれを放り投げる。なにやら複雑な顔をしている。
「遅いな四季様。見送りには来ると言っていたのに……。いいや、行こうか阿求。あたいだって退屈はしてるけど暇じゃない」
「いいんですか?」
「いいんだ。いつも真面目に働けって言ってるのは四季様だ。あたいは職務を果たすだけだよ」
 船が彼岸の岸を離れる。
 私は岸をいつまでも眺めていた。やがて小さくなりつつある風景には閻魔の姿は現れなかった。
 どうしたのだろう。彼女が約束を破るということは絶対に無いはずだ。
「どうしたんだい阿求? そんな不安そうな顔しちゃってさ」
「……いえ、映姫様の事が心配になっただけです」
 小町は心細そうな顔でこちらを見つめてる。いけないな。小町にまで心配をかけちゃ駄目だ。
「いえ、本当に大したことは無いんです。ただ、こういう事は珍しいので」
「まぁねぇ、うちのボスは言ったことは絶対守るからねぇ」
 小町は話しながらも竿を操る手を止めない。船が河を切る音が一定間隔で続く。
「ほんと疲れた顔してるね。長旅で疲れてんだろう? 向こうまで着くのは随分先だから、寝ときなよ」
「……いえ、私はこうして風景を眺めている方がいいんです」
 変わらぬ遠景を眺め、考えていた。
 映姫は、気付いてしまったのだろう。私の犯した罪と与えられた罰を。
 私は若造だったのだ。得たばかりのほんの僅かな知識で、神々と渡り合えると思っていた。人間の身で神々を越えようとしたのだ。
 だから、十王裁判は上手くやったと思った。映姫との付き合いも初めは打算だった。
 しかし、彼女は本気だった。閻魔でありながら、真剣に人間の私を愛そうとしていたのだ。
 いつしか私は、そんな映姫の為ならばこの身を捧げてもいいと思うようになっていた。
 悪辣たる妖怪達に蹂躙される幻想郷を、映姫は嘆いていた。私は決心した。私の全てを幻想郷の発展のために使うことを。
 幾度かの転生は、魂を傷つけ、自我を削った。私が得意としていた求聞持の能力は、膨大な記憶を残す代わりに、転生の度に自我を削っていくのだ。
 私の魂はいつか幻想郷の記憶に溶けて、消えていくのだろう。
 もう時間はそんなには残されていない。後一度の転生で私は消えてしまうはずだ。
 頭に付けている椿の花飾りに手をやった。
 これは初めての転生の時に映姫が与えてくれたものだ。ボロボロになっていくそれを繕いながら使っている。
 椿は映姫が好きな花だ。
 初めての転生で、生前の習慣が抜けずに不束かな少女になってしまった時、笑いながらそれを与えてくれた。
 今でもその笑顔を思い出すことができる。だがその面影も、今は何処か悲しげだ。
 これで良かったのだ。
 私が消えれば映姫は悲しむ。その時はそう遠くない。
 真実を知ってほしい。私は罪人だ。貴女に愛されるには不相応だったのだ。貴女には貴女の正義を貫き通して欲しい。私なんかに気を奪われないで欲しい。
 もう、映姫には二度と会うことは無いだろう。どんな顔をして会えば良いのか分からない。
 もう見当たらない彼岸を求め、三途の川の水平線をいつまでも、いつまでも見つめていた。

 

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 昨晩、九代目御阿礼の子、稗田阿求が亡くなった。享年二八歳だった。
 体調を悪くして、長い間の療養も甲斐なく永眠した。
 阿求は人里の為に尽くしてくれた。新たに作られた九代目幻想郷縁起は、いままでの古臭い印象を払拭して、新たな風を吹き込んだ試験的な試みだった。
 益々の発展が見込める矢先だっただけに、この死は悔やまれる。
 里では要人でもある阿求の為に盛大な弔いを行うことにしている。

 

—————————————-

 

「ここは……」
 灰色の空。今にも降り出しそうな雲が垂れ込めている。ぼんやりとした思考で、何があったのかを思い出そうとするが思い出せない。
 身を起こす。辺りには死者の燐光が漂っている。三途の川岸か。また死んだのか。何度目だろう? 何時になっても三途の川岸は慣れぬ光景だが。
 さて、どうするべきか。映姫と顔を合わせるのは辛い。気が重くなる。
「あ、いたいた。阿求!」
 ツインテールの死神が私を見つけて駆けてくる。何が嬉しいのか満面の笑みで小躍りでもしそうな様子だ。
 私の前に立つとチェシャ猫の様に笑みを浮かべた。
「待ってたよ! 三途の川にようこそ稗田阿礼! でも何度も来てるんだよねぇ? その格好だと違和感あるよ」
「え?」
「自分の姿を見なよ」
 小町は川岸を指さす。姿を見ろということか?
 私が訝しみながら川面に身を写すとそこには、かつて見た青年の姿が写っていた。なんだこれは!?
「いやー、いい男だねぇ。堅物の四季様が熱をあげる訳だ。ま、あたいのタイプじゃないな」
 どういうことだ? かつての阿礼の姿に戻っているのか? 肉体もあるではないか。
「どういうことですか? 何をしたんですか小町さん?」
「んふー、聞きたい? 小野塚小町の一世一代の大活躍だよ! 刮目して見よってやつだ」
 小町は勿体ぶって見得を切った。
「四季様の執務室に忍び込んで、阿礼乙女の書類書き換えておいたんだ。今回も、自分への当て付けを自分で許可しようとしてたんだよ? 真面目というよりは馬鹿だよねぇありゃ。あたいにゃよくわかんないよ」
 なんて事を……! 下手をすると映姫の立場まで危ういではないか!
「駄目ですよ小町さん! それは不味い!」
「いやー、死神の横の繋がり舐めちゃいけないよ? 二人の関係は何百年もあたい達の噂になってたのさ。どうすりゃいいのかあたいも悩んでいたのさ。だからさ……」
 小町の拳が私の顔を捉えた。背後に吹き飛ばされる。口の中を切った様だ、鉄の味が広がる。
「……アンタのことは気に食わないんだ稗田阿礼」
 小町は胸ぐらを掴みあげた。冷たい眼で私の目を睨みつける。
「何故、四季様を泣かせた阿礼!? 四季様はあれからもずっとお前を待ち続けていたんだぞ!」
 激痛が収まってきた。息を整え、言葉を吐く。
「私は罪深い。裁かれなければならなかった! 愛されてはいけなかった! お前に私達の何が分かる小町! 私は映姫の側に居てはいけない存在だったんだ!」
 小町は冷たい目でまた一瞥すると、襟首を離した。
 小町は河原を少し歩くと、どすんと石に腰掛けた。
「……四季様が裁けないのなら、あたいが裁いてやる。今すぐにでも三途の川に沈めて魚の餌にしてやってもいいんだけどさ、四季様はお前を待ち続けている。あの人に泣かれると、あたいは切り裂かれるように辛いんだ」
 小町は背筋を伸ばし、大鎌の柄で河原を突いた。がつんと音が響く。
「死神・小野塚小町が、罪人・稗田阿礼に判決を下す! 判決・黒! 罪人は幻想郷を出て行け! 但し、四季映姫を連れて、だ」
 不審な表情になってしまった私を、小町は真剣な顔で見つめた。
「男だったら好きな女守ってやるぐらいの甲斐性みせなよ。向こう岸の小屋で待ってな。四季様丸め込んで連れてきてやるから。それから外の世界の友達の死神の所までは連れて行ってやるよ。あたいが出来るのはそこまでだ。そっからさきは……二人で逃げな。是非曲直庁と死神全てが敵だ」
「小町……」
「勘違いするなよ稗田阿礼? あたいは四季様が泣くのを見たくないだけだ」
 小町は立ち上がり、川岸へ歩いて行く。川岸には船が繋がれている。小町は船に上ると振り返る。
「来なよ阿礼。飛ばすよ、いつ気付かれてもおかしくない。これからは時間との勝負だ」
 私はゆっくりと見上げる。黙って乗り込んだ。
「準備はいいかい? 二度と幻想郷には帰れないよ?」
「ええ」
 船が岸を離れる。少し風が出てきたようだ。煽られて船が揺れる。
 迷いは無かった。全てのものが鮮やかに見える。虚ろな輪廻はここに来るために集約されていたのだろう。私の旅はもう少しで終わる。
 私は彼方を見つめる。今度は愛する人の手を再び掴むために。

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