ナナシノユウレイ

ナナシノユウレイ              椎野樹

 

頭蓋骨持ち歩き少女_背景

 

 県道わきの畦道を歩いていた玲《れい》は、誰かが呼ぶ声を聞いた。
 少々げんなりとした表情で声のする方向へ振り返る。声は往来からちょっとだけ離れた河原から聞こえて来るようだった。
 玲はため息をひとつ付くと、その声がする方に向かって歩き出す。
 河原には腰に届くほどの高さの野草が繁っている。7月に向かい気温の上昇とともに、河原の野草も勢いを増している。玲は誰にともなく呟いた。
「やだなぁ……ここを行くの?」
 玲は自分の身なりを確認する。中学校から帰宅途中で制服のままだ。素肌が露出したスカートでは尖った葉に触れるだけでかぶれてしまうだろう。背負っていたリュックを下ろし、中から学年指定の赤いジャージのズボンを取り出す。玲は制服のスカートの上からジャージを履いた。意を決して河原の藪の中へ踏み込んでゆく。
 生い茂った夏草をスニーカーで踏み潰しながら進む。一歩進むごとにむせ返るような青臭い匂いが熱気の様に玲を包む。
 玲は河原の中程で立ち止まった。遠くには街道の喧騒が聞こえるが、ここまで来るとどこか遠くの異世界の事の様だ。この世界では野鳥たちの睦み合う声が主役である。玲はそれにも耳を貸さず、不可知の声に意識を集中する。
「ここかな……」
 その『声』は地中から聞こえてくる。玲は辺りを見渡して何か道具になるものは無いか探した。幸い、すぐ近くの川辺に半分朽ちたブリキのバケツを見つけた。これなら土を掘る事ができそうだ。
 玲はそのバケツを取ると『声』がする地点を掘り返し始める。二度三度と土へと突き立てるうちに玲は後悔した。やはり土を掘るための道具ではないバケツでは、一度土をすくうだけでも相当な力がいる。渾身の力を込めて土にバケツを突き立てる。
 額を流れる汗が眼に入りそうになるのを拭う。腰の辺りに鈍い痛みが生じ始めている。
 玲がいい加減に諦めようとした時、それは現れた。初めそれは土に汚れた白い石の塊の様に見えた。
 玲はバケツを捨ててそれの周りの土を手で掻き分ける。引っかかりを感じたので指を掛けてひっばると、以外なほどあっさりとそれは穴から抜けた。
 土の中から出て来たそれは、髑髏。いわゆる頭蓋骨だった。大きさから察するに犬などの動物の物ではなく人間のそれだろう。玲の指は頭蓋骨の目に当たる空洞に引っかかっている。頭蓋骨を地面に置くと、付近に生えている雑草をむしり、こびりついた土を拭ってやる。玲は軽く手を合わせて一礼する。

 

 玲は土の中から拾い出した頭蓋骨を放置するわけにもいかず、持ち帰ることにした。さすがにそのままでは人目が気になるので、体育でつかったジャージの上着で頭蓋骨を包みこみ、しっかりと袖を結び、片手で持ち運べるようにした。
 帰るために河原のあぜ道を踏みしめ戻る玲を、県道の方から一人の女子高生が見つめていた。
 紺色のブレザーとプリーツスカートは近くにある高校の制服だろう。それにしてもいまどきの高校生にしてはルーズソックスは珍しい。艶やかな黒髪に、日の光を嫌うような白磁の肌。遠目ながらも端正な顔立ちであることが分かる。
 彼女は玲を見ると無邪気な笑みを浮かべて手を振った。玲は笑顔を向けられたのにかかわらず、刃物を首に当てたような寒気を感じる。全身がざわざわする凶悪な感覚を味わいつつ、玲は一つの決意を固めた。
 玲はスニーカーの裏にアスファルトの硬さを感じたと同時に、全力で駆け出した。
「え!? ちょっと……なんで逃げるのよ!」
 驚いた表情の彼女を取り残し、玲は前傾姿勢を崩さずに疾走する。虚を付かれた彼女もあわてて走りだす。
「まってよ! それ私のじゃない! どうするつもりなのよ!?」
 玲は後ろからあたふたと追いかけてくる頭蓋骨の主? とおぼしき女子高生には構わず走り続ける。玲は体力には自信がある。それに追いかけて来る女子高生は、見るからに文化系だ。所詮、陸上部で無駄に走らされ続けている玲の敵ではない。
 玲のはるか後方で、ずでんと女子高生がつまずいた音がした。案の定、玲が振り返ると道路に這いつくばって、泣き伏せている。その背中には懐いたところをいきなり蹴り飛ばされた野良犬のような哀愁があった。
 さすがに可哀想になってきた玲は、いまきた道を戻り、声を掛けてやることにした。
「大丈夫ですか?」
 自分より年上の女性が道端に倒れている姿は、痛ましくあるととともに無様でもある。 彼女はいまだに声を殺して、肩を震わせている。涙をためた瞳で玲を見つめあげると口を開いた。
「…………大丈夫なわけないじゃない! そっちから呼び出してきて、なんでいきなり逃げるのよ!」
「知らない霊《ひと》にはついて行っちゃダメだと、おばあちゃんから言われています」
「ずいぶんと立派な教育を受けているのね。おかげでびっくりしすぎて死ぬかと思ったわ!」
「いいえ、安心してください。もう二度と死ぬ事はありませんから」
「分かってるわよ!」
 彼女は怒ったように立ち上がると、服についた土埃を叩き落した。そして値踏みするような目付きで玲を見つめた。やがて諦めたようにため息をつく。
「思い出してみると、こうやって人と話をするのも久しぶりだわ。どうやら、あなたにはお礼をしなければいけないみたいね」
 玲は表情を変えず、訥々と受け答える。
「気にしないでください。死してなお、現世《うつしよ》に留まり続ける魂を導くのが、わたしたちの役目です」ほんのわずかに頬を染めるとこう付け加えた。「わたしはまだ修行中の身ですが……」
「あなた、名前は?」
「わたしの名前は、根神《ねがみ》玲といいます」
「そう、玲ちゃんね。私は……――」
 彼女はそこで口を丸く開いたまま、呆然としていた。
「あれ……? 私の名前は?」
 うろたえ、色を失った彼女に、玲は色を交えずに答える。
「死者の身体が土へ還るように、死者の魂は常世《とこよ》の国へ帰るが定め。全てが一つの常世の国で名は不要」
「……つまりは私の名前は無くなっちゃった訳?」
「そういうことになります」
「ふざけないでよ!」
 玲が顔を見上げると、怒っているとも泣いているとも取れない表情のまま、彼女は喉から声を搾り出した。
「……なんでこんなところで十年も縛り付けられて、真っ暗のなかでずっと一人ぼっちで……、苦しいのに、誰も話を聞いてくれないのに……――、なんで……、なんで私だけがこんな目にあわないといけないのよ!」
 激しい口調で、叩きつけるように叫ぶ姿を、玲は透き通った視線で見つめる。
「不本意かもしれませんが、この世の理《ことわり》に従う限りあなたがあなたでいられる時間はそう長くないのです。わたしが見つけた以上、わたしがあなたを導かなくてはいけません」
「……どうするつもりなのよ」
「これを――」
 玲は右手に握るジャージの包みを掲げた。それは不自然な膨らみでもって頭蓋骨を包み込んでいる。
「おばあちゃんのところに持っていくつもりでした。おばあちゃんならあなたを苦しめる事なく常世の国へ送ることができますから」
「え……」
「おばあちゃんに言われました。玲はまだ未熟だから、霊を見つけても一人でお送りする事は無理だって。だから、苦しんでいる人を見つけたら、おばあちゃんのところに連れてくるように言われています」
「ちょっと、待ってくれないかな?」
 玲は再び彼女の顔を見上げた。悲しみにくれた様子だった彼女は、少し戸惑いの表情を浮かべていた。
「ちょっとね、玲ちゃんにお願いがあるの」
「なんでしょうか?」
「あのね……、私がここに縛り付けられてから何年も経つんだけど、その間、お父さんとお母さんにずっと、ずっと謝りたいと思っていたの。だから、ちょっと連れて行ってもらえないかな?」
 玲はひそかに眉をひそめ、気怠く口を開く。
「あなたは、家族に会えれば満足してくれるのですか?」
 いままで暗澹としていた彼女の顔が一度に晴れやかになる。
「……いいの?」
「しかたがないです。この世に未練を残して悪霊になってしまっても困りますから」
 彼女はふらりと倒れこむように近寄ると、その胸に玲の顔を抱擁した。
「ありがとう」

 

 放課後を幾分と回った駅のホームには人影がなかった。老朽化が進んだ木造の無人駅ではあるが、これでも通学時間には生徒達のはしゃぐ声で喧騒にあふれている。あとしばらく時間が経てば部活動を終えた生徒達が帰宅のために集まってくるだろう。いまはまだ周りの世界から取り残されたように静まりかえっている。
 玲は沈黙が支配する駅のホームにただ一人、佇んでいた。白いプラスチックのベンチを見つけると、そこに腰掛ける。隣の席に赤いジャージで包んだ頭蓋骨を置いた。不満げに独り言を言う。
「人がいなくてよかったです」
「え、なんで?」
 玲は剣呑な眼差しでもって頭蓋骨の主である彼女を見た。
「ぶつぶつと独り言を言っている危ない人と思われるのは嫌です」
「あはっ、そういえばそうね」
 彼女からは屈託のない天真爛漫な笑みがこぼれた。玲は不服そうにその笑顔を見つめて、それに、と言葉を継いだ。
「あなたのように強い想念を残したままの霊は、感じやすい人にとっては多大な悪影響を及ぼしてしまうのです」
 今まで明るく笑っていた彼女は玲の一言で黙り込んでしまった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。別にあなたが悪いわけではありません」
 玲は彼女から目を逸らすと、遠い丘陵の先を見つめた。線路の向こうからローカル線がこちらに向かってくるのが見える。

 

 玲が車内に入ると、冷房のひんやりとした空気が汗ばんだ肌を心地よく冷ましてくれた。車内にはまばらに人が座っている。玲はそのうちで空いている窓際の席を見つけて腰掛けた。窓からは暖かな陽光が差し込んでおり、玲は少し目を細める。
 隣の座席には彼女が居住いを正して、なんとなく居心地悪そうに座っていた。
 ブザーが鳴り響くと、がたんと強い振動とともに車窓の風景が動きだす。
 玲は車窓の外の景色を眺めており、終始無言である。隣の席で彼女はじっとしていたが、耐えかねたのか周りの様子をうかがうと、小声でそっと玲に話しかけた。
「……玲ちゃん。玲ちゃんはいつもこんな感じで人助けをしているの?」
 玲は窓辺に肘を置いて風景を眺めていたが、姿勢を変えず小さくうなずいた。
「へぇ。私より若いのにすごいね。おばあちゃんのところに私を連れて行くって話していたけど、おばあちゃんも霊能者なの?」
「……うん」
「すごいね。やっぱり、お母さんもおんなじ感じの仕事?」
 玲はすこしの間沈黙すると、窓辺から腕を下ろして前をじっと見つめた。しばらく考えた後、小声で話し始める。
「お母さんはいません。わたしを生んだ後、すぐに死んでしまいました。お父さんもわたしが小学生の頃に、わたしを怖がって家を出て行ってしまいました」
「え……」
「わたしがいる場所には、さまざまな怨念が訪れて災いを招くのです。飼っていた猫や小鳥はすぐに狂って死んでいきました。友達だった従兄弟の子は悪霊に取り付かれて、何日も熱に苦しめられた後、うなされて道路に飛び出したところを交通事故で亡くなりました。お父さんは言っていました、わたしは鬼子だって」
「…………」
「お父さんがいなくなった後、有名な霊媒師だったおばあちゃんがわたしを引き取って育ててくれました。おばあちゃんはわたしにいろんな事を教えてくれます。おばあちゃんは言っていました。玲は神さまに選ばれてしまったんだって。人よりも強すぎる力を与えられてしまったんだって」
「玲ちゃん……」
 玲の瞳から一粒、雫がこぼれてスカートに落ちた。流れ落ちる涙を玲はそのままにした。
「わたしは多くの人を救わなければならない。それがわたしの使命だから。だって、わたしは神さまに選ばれてしまったのだから」
「玲ちゃん!」
 気がつくと彼女は玲の手を握り締め、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。まぶたをごしごしとこすり、息をつめると盛大に鼻を啜り上げる。
 玲はその様子を見て、少し引く。
 彼女は嗚咽で途切れがちになりながらも言葉を絞り出す。
「辛い話をさせてごめんね……、私は、私ひとりがずっと苦しいんだと思っていた……。玲ちゃんがそんなに辛い目にあっているなんて知らなかった。そうだよね、そんな歳で私よりいろんなことを知ってるんだもんね。うん、歳不相応にしっかりしてるとは思ってたんだ」
「……」
「そうだ、私が――」
 次の一言を聞いて玲は、こんな霊、連れてこなきゃよかったと激しく後悔した。
「――私が玲ちゃんのお姉さんになってあげる!」

 

「玲ちゃん! なんでそんな早足なの!? 追いつけないよ!」
「ついてこないでください」
 となり街のターミナル駅に着いた二人は、彼女が生前住んでいたという住宅街を目指すことにした。この駅の地下は近辺の町では一番の繁華街で、玲も何度か訪れている。地下街の目抜き通りを、玲はランニングに匹敵する速度でずんずんと進んでいく。
「玲ちゃん! 玲ちゃん!」
「……なんですか?」
 玲が面倒そうに振り返ると、彼女はカジュアル服のウインドウに張り付いていた。玲を満面の笑みで見つめると、手をぱたぱたと振って招き寄せる。
「このボーダーとショートパンツ、玲ちゃんに似合いそう……。玲ちゃんはスレンダーだし、手足も長いからこんな感じの組み合わせがいいかなぁ?」
 玲はあきれ顔で彼女を見ていたが、黙殺して先を急ぐことにした。
 あわてて駆け寄ってきた彼女は、不満そうにぶつぶつと言っていたが、しばらくするとまた嬌声を上げた。
「玲ちゃん! ちょっとこれみてよ!」
 玲が黙って後ろを振り向くと、彼女は和菓子屋のまえで目をきらきらと輝かせながら店先の張り紙を指さす。
「ここの善哉、すごくおいしいのよ! 一日限定三〇杯なんだよ? 今なら間に合う! 入ってこうよ」
 玲はこめかみが引きつるのを感じた。
「……………………頭蓋骨ごとここに置いていきますよ?」
 彼女はわかったわよと頬を膨らませると、しぶしぶ店先を離れる。
 その後も彼女は、ゲームセンターやファンシーショップを見つけるたびに、玲を呼び止め辟易させた。
 二人が住宅街に着いたのは、玲が十二分に疲弊したのちであった。

 

 

 玲が、彼女が生前住んでいたという住宅街に来るのは初めてだった。住み慣れた町から遠く離れたその場所は、同じような住宅がいくつも立ち並び、のっぺりとした印象を受ける。夕闇が近付いてきたせいもあり、抽象絵画が描き出す赤黒い不安のような風景が開けていた。
 黄昏時の住宅街は生活音があふれている。近くの家からはテレビの音が洩れ聞こえた。またどこか遠くの家では母親が子供を呼ぶ声が聞こえる。それぞれの家には明りが灯り、そこには自分たちとは異なる世界に生きている人々の営みを主張していた。
 ふと玲が隣に立つ彼女の表情を伺うと、先ほどまでとは異なり、緊張した面持ちである。自分の顔を見つめている玲に気がつくと、無言で気弱そうに笑った。
 玲はそんな彼女の様子を見て、しばらく考え込んだのち、彼女の手を取り、握りしめた。
 やはり霊体である彼女の手を握ってもなんの質量も感じなかったが、それでも彼女はやわらかく玲の手を握り返してきたように思う。
 そうして二人は手をつなぎ、住宅街を歩いた。

 

 何もいわず二人で路地を歩いていたが、彼女は思案顔で玲に話しかけた。
「そういえばさ……、家にたどり着いたとしても、どうやってお父さんやお母さんと話せばいいのかな? うちの家族は霊感なんてないよ?」
 彼女はそういいながら自分の手を透かすようにして見つめる。
 玲は前方から視線を外さずに答えた。
「その点は問題ないと思います。あなたほど生前のイメージがはっきりした霊であれば、相手が意識を集中してくれれば、意思の疎通は行えるはずです」
「ふうん、そんなことができるんだ……」
「あなたの両親にはまずわたしがコンタクトを取り、あなたに意識を集中してもらいます。そうすればあなたのメッセージは伝わると思います」
「そっか、玲ちゃんには面倒かけちゃうかもしれないな」
 彼女は不安げな顔を作る。
「うちのお母さん、すぐに泣いちゃうからさ、話なんか聞いてくれないかも……」
 玲はそんな彼女の様子を横目にして、はっきりと断言した。
「不安に思う必要なんてないです。子のことを思わない親なんていません。あなたの両親もあなたの事を思い続けているはずですから、あなたの想う気持ちを伝えればいいのです」
 そっか、と彼女は情けないような笑顔を浮かべてうつむいた。玲も何も言わず、二人は歩き続けた。

 

 彼女は何も言わず角を右に折れる。
 玲はじっと足元をだけ見つめて、彼女の行く先を追う。

 

 彼女の足が止まった。
 玲は顔を上げ、目前の家を見据えた。

 

 その家は、周りの住宅とさして変わらず、住宅街に溶け込んでいる様に見えた。薄暗い闇の中、オレンジ色の暖かな灯りを灯している。白木の表札には「守屋」と記されていた。
 玲が再び彼女の表情を伺うと、不安の色はもうなかった。
「やっと……帰ってこれたんだ」
「行くんですか?」
 彼女は小さく頷く。
「……うん」
 つないでいた手を離し、玲がインターフォンのボタンを押そうとした時、一台の自転車が、住宅の前にブレーキ音を立てて止まった。

 

 その自転車にはまだ幼い、小学生低学年ほどと思しき少年が乗っていた。玲を見つめると小首を傾げる。
「あれ? お姉ちゃん、うちになんかよう?」
 少年は自転車を駐輪すると、ばたばたと玲の前を走りぬけ、扉のノブに手をかけた。
「おかあさーん、ただいま! お客さん!」
 玲は目前の光景を呆然と見ていた。振り返り、彼女を見つめると、彼女は首を横に振る。
「毅《つよし》! 靴下はちゃんと脱いで上がりなさいよ!」
 家の廊下の奥から、中年に差し掛かった女性が顔を覗かせ、玲の姿を認めて歩いてきた。毅と呼ばれた少年は玄関に腰掛けるともぞもぞと靴下を脱いでいる。
 女性は廊下を歩いてくると、門前で立ち尽くしている玲に話しかけた。
「こんばんわ、うちになにかご用ですか?」
「…………」
 玲は手のひらにじっとりと汗がにじんでくるのを感じる。
「……なんでしょうか?」
 女性は、何も話さない玲へ訝しそうな眼差しを向けた。
 玲は勇気を振り絞り話し始める。
「……実は、お宅のお嬢さんの事なんですが……」
「えっ!?」
 女性は驚愕の表情を浮かべ、目を見開く。
「――真輝《まき》の事を何かご存知なんですか!?」
「…………」
「お父さん! ちょっと来て!」
 女性は家の奥へばたばたと駆け戻る。少年はそんな母親の姿を、不思議そうに見つめていた。
 家の奥から声が漏れ聞こえた。
「……どうしたんだ、そんなにあわてて」
「真輝の事を知っているっていう女の子が……――」
 玲は足元を見つめていた。時間が妙に間延びしたように思える。足元がふわふわとして地を噛んでいない。
 そのとき、誰かが後ろから腕を引いた。
 あわてて後ろを振り返ると、彼女が玲の腕をつかんで、涙を目にいっぱいにためて首を振っていた。
 家の廊下をゆっくりと二人の男女が歩いて来るのが見える。
「本当か? 警察でもまだみつからないって」
「でも知っているっていってるんですよ!」
「……お父さん? お母さん?」
 少年は両親の様子が不審であることを察したらしく、神妙な表情になっている。
 また、彼女が玲の肩を引く。
「玲ちゃん……もうやめて! もういいから!!」
 彼女は大粒の涙を流しながら、大声で叫んでいた。
 玲は、一瞬でここに留まるべきではないと分かった。守屋家に背を向けて歩き始める。歩む足が徐々に速くなり小走りになる。
 後ろから声が聞こえる。
「……おい、あの子か?」
「……ちょっと! あなた!」
 玲は走った。後ろから彼女の両親が呼びかける声が聞こえたが、走る事に全神経を集中した。
 追ってくる声は風を切る音に混じり、やがて、消えた。

 

 夜の児童公園にはアーク灯が灯され、木々の緑のコントラストだけをはっきりと映していた。六月も後半に入り、昼間はすでに猛烈な暑さになり始めているが、夜半を過ぎるとまだ空気は冷たい。そこで一人の少女がブランコを漕いでいる。
 玲は立ち漕ぎでブランコに勢いをつける。猛烈な勢いの風が玲の髪を躍らせる。
 遊具の軋みだけが深夜の児童公園の静寂を乱している。
 玲はそのままの勢いでブランコから飛び降り、見事に着地した。
「……いつまでそうしてるつもりですか?」
 ブランコの隣にあるシーソーでは、彼女が膝を抱えて泣いていた。
「あれからずっとめそめそと、付き合っているこちらの身にもなってください」
「…………」
 彼女は泣きはらした真っ赤な目で少しだけ玲を見つめると、また膝のなかに顔をうずめた。また、嗚咽する声が聞こえる。
「しかたないじゃないですか。あなたがいなくなってから十年以上も時がたっているのですよ。誰も責める事はできないです」
「……分かってる」
 彼女は膝に顔をうずめたまま答えた。
 玲は肩を落とし、彼女のもとへ歩いてゆく。
「あなたはこれからどうするつもりなのですか? わたしにはあなたをおばあちゃんの所に連れて行くしか方法が思いつかないのですよ」
 玲は彼女の隣に腰を下ろした。
「未練が無いのにこの世に留まっていても不毛なだけじゃないですか?」
「……」
「わたしも生を受けた以上、いつかは死んでしまいます」
「……」
「だけども、死後の膨大な時間を、意識を持ったまま過ごしたいとは思いません。いつかは、わたしを覚えている人は、向こう側に行ってしまいます。誰も、わたしの事を覚えていない世界で過ごすことは虚無になることと同じじゃないですか?」
「…………いつも分かったような口を聞くんだね。玲ちゃんは」
 彼女は体を起こすと、玲に背を向ける。
「そうやって、知ったかぶりのおりこうさんには私の気持ちは分からないよ」
 玲は深く溜息をつく。
「分かるはずが、ないじゃないですか……」
「じゃあ、どうしてそんな風に人がどうするか指図するのよ!?」
「それは……」
 玲は彼女の背中を見て、黙り込んでしまった。
 彼女はふらりとシーソーから立ち上がると、公園の入り口を目指し歩いてゆく。その足取りは傍から見ていても危うい。
 玲にはその後をついていく事しかできなかった。

 

 二人は夜の街を歩いた。
 彼女はふらふらと、すべての店がシャッターを下ろしたアーケード街を歩く。
 玲はその後ろから、右手に頭蓋骨の包みをささげてついて行く。
 どこにも行く当てなどなかった。二人はこの世界に取り残された孤児だった。

 

 どれだけ歩いただろうか。街の明かりはぽつりぽつりと街灯の明かりだけになり、人影はすでに無かった。
 玲は何も考えずぼんやりと彼女の後ろを歩いていたが、急に彼女が立ち止まったので、ぶつかりそうになってしまう。
 彼女は俯きがちに立ち尽くしている。やがて泣き過ぎてかすれた声で言う。
「もういい……もういいよ玲ちゃん……――私は…………疲れちゃったよ……――」
「…………」
「ねぇ……玲ちゃんのおばあちゃんの所へ行こう……?」
 彼女は玲のもとへ振り返る。涙はすでに渇いていた。
 玲は自分のスニーカーを睨みつけ、指を強く握りしめた。みぞおちの辺りが絞めつけられるのを感じる。玲は怒ったように無言で後ろを向くと歩き始める。
 後ろを歩く彼女に聞こえない様に口の中で、未熟者と呟く。
 周りの世界が全て閉ざされて、無力な自分だけが居るようだった。

 

 その時だった、一陣の陰風が吹く。玲は一瞬にして肌が粟立つ。近くの林で寝ていたはずの烏たちが一斉に飛び立つ。玲の意識の中に鮮烈なイメージが飛び込んでくる。

 

 男、誘拐、恐怖、監禁、陵辱、殺意、哀願、悲鳴、血、死体。

 

 断片的な映像がコラージュの様に一つの記憶を描き出す。玲はその吐き気を覚える情報に耐えられなくなり、しゃがみ込んだ。頭の中に直接、送り込まれてくるイメージは、間違いなく彼女のものだった。頭が割れそうになる痛みに耐え、振り向く。

 

 彼女はいなかった。

 

 

 倉橋は酔っていた。着ている作業着は鉄錆でどろどろに汚れている。醜く皺を刻んだ顔は日焼けをしてる訳でもないのに妙に色黒い。長髪は油染みており、ポマードを付けた様に光っている。
 千鳥足の倉橋はバランスを崩し、電柱にぶつかる。悪態を付き電柱を蹴飛ばした。そのままふらふらと立ち止まり、電柱に放尿する。事をすませると、酔った足取りでガード下へ進む。
 ガード下の橙色の明かりの元で、女子高生が一人、立ち尽くしていた。
 倉橋はなんの興味もなく女子高生の前を歩き去ろうとするが、酔いが入っている事もあり、劣情の炎が立ち上がるのを感じる。
 女子高生へ向きをかえると、酒臭い息を吐きかけながら、声を掛ける。
「ようねぇちゃん、こないところで売りやっとるんか? 男おらんやろ!? 俺はさ、今けっこうもっとるんよ。三枚でどや?」
「…………」
「なぁ……ええやろ?」
 女子高生は倉橋を避けるように歩き始める。倉橋はあわてて女子高生の前に回りこんだ。
「なぁなぁなぁ、ええやろ!? ……なんか話してや!」
「……………………覚えている!」
 倉橋は足元でぐしゃりという音を聞いた。何気なく足元を見ると、足首がありえない方向に曲がっている。激痛が遅れて脳に届く。獣じみた悲鳴が倉橋の口からあふれ出す。
「ぁぁああああああああぁああああああああぁあああああああああああ!!」
 今まで光景を橙色に染めていた街灯が、ばちりと音を立てて消える。
 倉橋は支えを失い、尻餅をついた。その様子を彼女は能面のような無表情で見つめていた。その周囲には青白い燐光が揺らめいている。地の底から響くような声が口から漏れた。
「――……私は……あなたに無理やり襲われた……………………………………………………――――――――私は……ひどい事をいっぱいされた――………………………………………………私は……あなたに家族を奪われた………………………………―――――――――――――――私は……私は…………あなたに殺された!!!!!!」
 倉橋の左腕が急に持ち上がると、捻じ切るかのような勢いで回り始める。倉橋は無数の骨が砕けていく音を聞いた。倉橋はまた絶叫する。倉橋は動かない四肢をむりやり動かして、彼女から離れようとする。だがそれは無駄なあがきだった。
 手足をもがれた昆虫の様に地べたを這いずる倉橋を、彼女は一歩、また一歩と追い詰める。彼女は倉橋のそばまで寄ると、ゆっくりとその首へ手を掛ける。ひっ、と倉橋は声にならない悲鳴を上げる。

 

 ちりんとひとつ鈴の音が響く。

 

 倉橋の首へ手を掛けていた彼女は動きを止める。
 街灯に再び明かりが点る。
 ガード下の入り口に一人の少女が佇んでいた。

 

「…………玲ちゃん…………」

 

 玲は緩やかに歩みを進める。
 その手にはむき出しの頭蓋骨を抱え、もう片方の手で飾り紐のついた鈴を奉げる。制服の少女には不均整な出で立ちであったが、そこには厳かな静寂があった。
 玲は、抑揚のない声で言う。
「……なにを、しているのですかあなたは?」
 玲の目には、憐憫とも怒りともとれない色が浮かんでる。
 彼女は感情が抜け落ちた顔で玲をぼんやりと見返す。
「…………玲ちゃん…………見逃して……お願い……」
 玲は眉間に皺を寄せる。仇でも見詰めるように彼女を睨んだ。
「できるはずが……ないじゃないですか……!」
「お願い……玲ちゃん…………私、この男だけは……絶対に許せない……!」
 玲は鈴を強く握り締めると、声を荒げる。
「……その男が死に等しい罪を抱えているにせよ、あなたが手を掛ければ、あなたの魂は永遠に救われることなく悪霊として彷徨い続けることになる。……わたしはあなたがそうなるのを見たくない!」
 彼女は玲のその言葉を聞いて、頬に一筋の紅涙を流す。
「私がお願いしてるのに……玲ちゃんはいじわるだよ…………玲ちゃんなんか……………………大嫌い!!!」
 彼女は幽鬼の様に立ち上がると、玲の下へ歩き出す。彼女の背後の燐光が一層強まる。
 彼女を睨め付けていた玲は、あきらめた様に首を振る。
 玲が手を薙ぐと、鈴が涼やかに鳴る。
「……未熟だとは御承知で御座いましょうが、根神玲が八百万之神々へ願い乞う……どうか我所願を天聴あれ……。……天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄、心性清浄にして、諸々の汚穢、不浄なし。我身は、六根清浄なるが故に、天地の神と同体なり……――」
 幽鬼が纏う青い光が淡くなる。玲の声が高まってゆく。
「――……諸々の法は影の像に随ふが如く、為す処、行ふ処、清く浄ければ所願成就、福寿窮りなし。最尊無上の霊宝、吾今、具足して意、清浄なり……どうか、この者の咎を……清め給え――」
 鈴の音が凛と響く。
 彼女を包む燐光が消えた。
 彼女は呆けたように立ち尽くしていたが、ぐらりとバランスを崩すと、崩れ落ちた。

 

 玲は焦燥したように駆け寄る。倒れた彼女の体を抱え起こす。
「大丈夫ですか!?」
 彼女は玲の姿を認めると弱々しく微笑んだ。
「……玲ちゃんはさ……本当に優しいんだね」
 彼女は手を差し伸べると玲の顔を寄せる。姉が妹にそうするように玲の髪を撫でる。
「喋らないで! このままだと成仏もできず消えてしまう!」
「もう……いいんだよ…………こんなことしちゃうなんて、私は玲ちゃんのお姉さん失格だね……」
「喋らないでってば!!」
 玲は子供のように泣きじゃくっていた。
 彼女はそんな玲の様子を不思議そうに見つめて、やわらかく笑みを作る。
「私ね……最後に玲ちゃんに会えて良かった……もう満足だよ…………来世があるんだったら、今度は玲ちゃんの赤ちゃんに生まれたいな」
 そういうと彼女は玲の腕の中で霞のように消えた。
 頭蓋骨がばさりと崩れ落ちる。砂のようになった骨は、やがて吹き抜ける風に乗り、どこかへ飛び去った。

 

 

 玲が気がついたときには、倉橋はすでに逃げた後だった。何時間もその場に泣き伏せていたようだ。よろよろと立ち上がると、暗闇に向かい歩き出す。
 夜にはもう朝の気配が混じり始めていた。黎明を告げる冷たい風が玲の泣きぬれた顔に吹き付ける。
 玲の頭の中を占めているのは、泣き虫で、お人よしで、優しすぎる、あの名前の無い幽霊の事だけだった。瞼の底が熱くなると、また涙が頬を濡らす。
 新聞をいっぱいに積んだ自転車が走りぬける。交差点ではヘッドライトを点けた自動車が信号を待っている。街は、新たな一日に向けて胎動を始めていた。
 玲は何度も手の甲で涙を拭う。こんな姿を誰かに見られたくなかった。それでも、どこから湧いてくるのか涙は止まらなかった。こみ上げてくる熱い息を詰めて一言だけ呟く。
「お姉ちゃん…………!」
 また、悲しみの波に襲われ、嗚咽を殺した。

 

 玲が家に着いた頃には、日は十分に昇りきっていた。
 玲は疲れ果てた様子で引き戸を開けた。音を忍ばせ廊下を歩き、二階にある自室へ行こうとする。そのとき障子越しに呼び止められた。
「玲かね? ちょっとおいで」
 玲はあきらめた様に肩を落として、障子を引いた。部屋の中では老婆が落ち着いた様子で座っていた。
「ずいぶんと帰りがおそかったね。あんまりおばあちゃんを心配させるもんじゃないよ?」
「……ごめんなさい」
 おばあちゃんは指で座卓の対面を示した。玲はしぶしぶとおばあちゃんの前に座った。
「さて……前は交通事故の男性の方だったかね……そのまえは恋敗れた女性の怨霊だったかな……。はてさて、今度はとんでもない悪霊に憑かれているかと思ったよ。お連れではないようだね」
「……」
 玲はおそるおそるおばあちゃんの表情を伺う。淡々として穏やかな様子であるが言葉に棘がある。玲はそれが嵐の前触れであることを知っている。
「玲には前も言ったかね? お亡くなりになった方の未練を聞きとげてやるのが私たちの仕事だと。時として御霊の方々はこちらの力量を試すようなことをおっしゃるが、私たちにできることは、その言葉に振り回されず、御霊の方々を正しい道へ導く事なのだと」
「……分かってます」
 おばあちゃんは卓上の陶器の煙草入れから一本とると、マッチを擦り火を点す。
「さて……玲は昨晩はどこへ行っていたのかね?」
「…………ごめんなさい」
 おばあちゃんはため息をつく。
「まったく……玲はしょうが無い子だ。常世の神様から話は伺ったよ。おばあちゃんは本当に心臓が止まるかと思った」
「……」
 まったくとおばあちゃんは繰り返すと、また煙草を吹かす。玲は俯いて話を聞いているしかなかった。
「常世の神様に、危なっかしい孫の事を相談したのだけどね、お前に守護の方が付くことになったよ」
「……えっ?」
 すぱーんと障子が開け放たれる。驚いて玲がそちらを見ると、彼女が立っていた。
 彼女は、ぱぱーんと自分の口でファンファーレを鳴らしながら、くるりと回った。
「ここで地縛霊から守護霊に二階級特進した私の登場です! 見てみて玲ちゃん? おばあちゃんから巫女装束もらったんだよ? 似合う? かっこいい? 玲ちゃんみたいでしょ」
 緋袴姿の彼女は祝詞をぶつぶつと唱え、無闇に御幣をふった。おばあちゃんはやれやれというような目で見て、未だ硬直状態が解けない玲に話しかける。
「なんというかの、玲ちゃんの所に帰るんだと聞き分けがなくて、向こう側でも処置に困っていたのだと。そこで相談した結果、おまえの守護になってもらう事になった」
「…………」
「玲ちゃーん? まだ固まってるの? 私だよ?」
 彼女は玲の頬を指でぷにぷにとつつく。玲は唖然としたまま見つめていた。
 やがて硬直が解けた玲は、彼女が持っていた御幣を奪い取ると、そのまま押し倒した。
「……どれだけ人に迷惑を掛ければ気が済むんですか!? この悪霊! わたしが三途の川の渡し守に直接、引き渡してやる!!」
「痛い! 痛いよ玲ちゃん! マウントポジションは卑怯だよ!?」
 馬乗りになったまま玲は、彼女を御幣でばしばしと叩く。振り返るとおばあちゃんに問う。
「おばあちゃん! 家にこんな悪霊置いておくにはいかないでしょう!?」
「いやの、ちょうど盆は書入れ時で、私一人ではそろそろ辛かったから人手が増えるのはありがたい」
「そんな……だいたいこの家は狭くて部屋なんてないじゃない!?」
「おまえの部屋で良かろう。結構スペースは開いてるんじゃないか?」
「つまり、玲ちゃんの寝顔襲いたい放題…………じゅるり……」
「あなたは黙っていてください!」
「名前が無いままだと面倒だね。生前の名を取って、あなたは根神真輝と名乗りなさい」
「はい! おばあちゃん、ありがとうございます!」
「おばあちゃん!」
 玲は、もう!とすねたように二人に背を向けた。
 彼女は玲にめちゃくちゃにされた髪を整えると、玲の背中に語りかけた。
「待ちきれなくて来ちゃった! 大好きだよ玲ちゃん!」
 玲はそっぽを向いたまま答える。
「わたしもだよ……お姉ちゃん」

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