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八雲紫考察

現在、東方二次創作で八雲紫の過去の話を書いているが、紫の存在に付いて随分と長い考察メモを書いたので投稿しておこう。各人色々と考え方はあるだろうけど、自分の考え方ということでよしなに。

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おそらくだけど、紫は荼枳尼天《だきにてん》だと思われる。九尾狐の藍を使役してる辺りで思い付いた。また、藍のスペルカードにも荼枳尼天を召喚するものがある。(式神「憑依荼吉尼天」)

名前の方は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)か、古事記にある日本最古の和歌「八雲立つ」でしょうね。紫の方は可視光のスペクトルであるとZUNが言及してる。八雲一家の紫・藍・橙はスペクトルの並び順。
名前のモチーフは小泉八雲が有力だと自分は思っている。秘封倶楽部のマエリベリー・ハーンと紫は、境界の能力で共通している辺りなどは関与を匂わせる。名前の部分でも小泉八雲で類似するので、この辺りは確定かなと。

荼枳尼天は日本では稲荷神社の主神として扱われている。狐を神の使いとして現れる豊穣の女神。
荼枳尼天は扱いが難しい神様で、一旦祀ったら死ぬまで信仰を維持してないと祟り殺されるという。武家では盛んに信仰されてたということで、平清盛も信仰していたらしい。
江戸ぐらいに下ると荼枳尼天はどんなものも分け隔てなく加護を与えてくれる神様で、博徒や遊女などにも信仰された。
また、性愛の神様とされる一面もあり、立川流という怪しげな密教分派のSEX宗教でご本尊として信仰されていた。

荼枳尼天だとすると閻魔の四季映姫とは部下と上司の関係。閻魔大王は荼枳尼天を死者の魂を迎える鬼として使っている。紫が映姫を苦手としてるのは、この辺りが理由なんじゃないかと思う。
多分、紫は元々、是非曲直庁で働いてたなり、何らかの形で地獄とは関与していたのだと思う。

また、荼枳尼天は神仏混淆で天照大御神にあたる大黒天に調伏された。だとすると、紫は高天原を知っている。根に持って高天原や天照を恨んでいる可能性は高い。
幻想郷などという現世と隔離された空間を作ったのは、現世の神々に対する当て付けと考える。

紫が荼枳尼天だとすると、ヒンドゥー教の鬼女なので、紫はインダス文明の頃から生きてる。出身地もインド(天竺)だろう。紀元前1500年ごろにヒンドゥー教が成立。ヒンドゥー教はインドの民間伝承を集めた宗教。その頃に生まれたダーキニーだとすると、おそらく紫の年齢は3500歳から4000歳ぐらい。
年齢が億を超えている八意永琳や蓬莱山輝夜の蓬莱人二人は論外として、天孫降臨の頃の八坂神奈子や洩矢諏訪子(約180万歳ぐらい)にも負けてる。因幡てゐは大国主と同年代なのでさらに年上。紫は幻想郷では若い方じゃないか?まぁ、神話の住人と比べるのが無粋だが。そもそもヒンドゥー教でのダーキニーの年齢は調べても分からないので不詳とするのが正しい。

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※備考
天孫降臨は日本書記の記述で約180万年。

”神武天皇述懐による経過年
『日本書紀』巻3神武紀によると磐余彦(後の神武天皇)が、日向国の高千穂宮にいた45歳の 太歳が甲寅の歳に、兄弟や皇子に、天祖降跡以来、一百七十九万二千四百七十餘?(179万2470余年[3])が経ったと述べたという。”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8

因幡の白兎は天孫降臨の更に昔の話。因幡てゐはあの見た目で幻想郷で年齢が分かるなかでは最高齢に近い。約200万歳ぐらいは行くのではないかと。
神話の話なので架空の話である。現実の天皇の在位年数から推察した考え方もある。
http://blogs.yahoo.co.jp/hinafkinn/18256675.html
上記のブログでは大国主は西暦122年頃の天皇としている。
だとすると、てゐは1900歳ぐらい。八坂神奈子、洩矢諏訪子もそれより若くなる。

えーりん、輝夜に関してはZUNが酔っ払って話した内容とはいえ、億以上なのはほぼ公式。竹取物語の人物なので1300歳プラスα程度とする事も可能ではあるが。
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あくまで自分の考察だけど、荼枳尼天が野干(化け狐)に乗って現れるのは中国からの伝承らしい。インドではダーキニーはジャッカルを連れているとされている。紫がインドから日本に旅をしている時、中国で藍に会ったのだろう。

中国で九尾狐というと、殷王朝の妲己。殷の滅亡は紀元前1046年。もし、藍が妲己だとすると、藍は3000歳前後。紫より年上ってのは考えにくい。
しかし、性格的に藍が妲己なのかなーってのは悩ましいところなんだけど。藍が妲己だとすると、紫の従者に甘んじる事はなさそう。自分が書いてる小説では、藍は妲己の娘って設定で書いている。
日本では九尾狐というと玉藻前《たまものまえ》。鳥羽上皇を呪い殺そうとしてた所を、安倍晴明の子孫に見つかって退治された。自分設定だとこれは、藍がやんちゃしたところをフルボッコにされたのだと思う。玉藻の前の時の九尾狐が藍だとすると、1155年の話なので、藍は850歳程度。
紫の技は式神や結界など陰陽道に通じるものが多い。紫は安倍晴明の陰陽道を勉強したんじゃないかな? もしくは、そのまま安倍晴明をモチーフとしている可能性も高い。

橙は第一次月面戦争の生き残りじゃないかな?と考えている。マヨヒガはその頃、紫が月に攻め込む為の妖怪たちを集めていた跡地。橙は跡地に一人残されていたところを藍に拾われたのではないかなと。
これは年齢が計りにくいけど、藍よりは絶対年下だなと思う。50?100歳ぐらいじゃないかなーと。

また、紫の考察で遊ぶならば、秘封倶楽部のメリーと紫の関係は一番おもしろいポイントなんじゃないかと思う。
境界と関連した能力。名前が小泉八雲で共通している。何らかの関係は間違いなくあると思う。
東方のSTGの世界と秘封倶楽部の世界は微妙に時間軸はズレているらしい。外の世界にも博麗神社があり、幻想郷の博麗神社と繋がっているという話もある。
この関連性を活かして話を広げるのが二次創作の面白さ。メリーが紫に成るまでを書いたり、博麗神社成立との関与を組み立てたりをするのは二次創作者それぞれの解釈なんじゃないかと思う。

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以上。

紫?幽々子の二次創作を書いてるんだけど、二月間ぐらい掛かってる。仕事が割と忙しい。一日、一時間ぐらいしか絵を描いたり、小説書いたりする時間がない。今月からまた職場が変わりそう。来月辺りには投稿できるようにしたいなぁ。

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閻魔と椿 幻想郷縁起異説

あきゅえーき

 

 

閻魔と椿 幻想郷縁起異説          椎野樹

 

 中有の道を抜け、三途の川へ至る。少しばかりの生者の人影も薄れ、辺りは彼岸へ向かう死者ばかりになっていた。
 ここには何度も訪れているが、相変わらず殺風景な場所だ。広々とした河原には少しばかりの枯れ木とススキが群生してるだけだ。渺渺とした三途の川は凪いで灰色の曇り空を映し、陰鬱な気分を更に塞ぎ込ませる。
 肩に食い込む雑嚢を背負い直し、目的の人影を探す。また、どこかで仕事をサボり、昼寝でもしてるのだろう。
 見つけた。周りの死者に不審な目で見られながらも大いびきで鼻提灯を作ってる。
「……小町さん? 起きて下さい」
 軽く肩を叩く。彼女はいびきで返した。鼻をつまんでみる。
「ふがっ」
 少ししかめっ面を作るが面倒臭そうに寝返りを打っただけだった。
 腹が立ってきた。辺りを見渡すと手頃な石がある。大丈夫だよね? 死神だから多少、無理をしても問題ないよね。
 私は、子供の頭ほどある石を両手で抱え、頭上までかざすと、サボり死神の腹へ叩きつけた。
「ギャン!!」
 飛び起きた小町は腹を抱え、辺りを転げまわった。私の姿を認めると、涙目でこちらを睨みつける。
「あ、阿求!? 何をするんだ! 人間だったら大怪我だぞ!」
「ちょっと映姫様の真似をしただけです。ほんとに何時もサボってるんですねぇ……映姫様に報告してもいいですか?」
 小町は宙に目を泳がせる。もじもじと手をいじり、窺うようにこちらを見る。
「やーそれだけはご勘弁を。これ以上減給されたら、あたい、木の根っこでもかじるしかなくなるんです」
 揉み手まで始めた卑屈な死神を横目に、私は溜息を付いた。
「いいから早く彼岸まで送って下さい。今回の異変についての報告を映姫様に行わないといけないんです」
 いぇっさーと小町は敬礼する。
 何だろうな、有能な死神なんだがあまりにもやる気がない。映姫が手を焼く気持ちがよく分かる。

 

 小町の小舟は三途の川を滑るように進む。さすがに本職だ。船を操る竿捌きは熟れている。
「草の根妖怪の異変、もう纏めたのかい? あたいは半年ぐらい後になるかと思ってたよ」
「今回は割と身近な妖怪ばかりでしたからね。家に資料は揃ってたんです」
「へー、仕事が楽そうでいいなぁ。あたいは肉体労働だからねぇ」
「そんなに大変なのですか?」
「まぁこんな仕事でも楽しみはあるんだけどねぇ。最近、外の世界の死神と友達になったんだ。すまーとふぉんって物を触らせてもらったよ。こんな経験、四季様でもできないよ」
 小町は、はにかんだ笑顔をこちらに向ける。単純過ぎるきらいはあるが善良なのだ。
「映姫様は今はどうなされてるのですか?」
「なーんも変わんないよ。いつも、しかめっ面でビシバシ悪人を裁いてるのさ。あたいにも仏頂面でさ、仕事しろとしか言わないんだよ」
 ふてくされる小町。成程、映姫は以前会った頃から全く変わっていない訳か。

 

 ……いや、初めて会った時からそうか。彼女はまだ稗田阿礼であった私にも高圧的な態度で応じていた。
 思えば、私もちっぽけな学識を誇るだけの若造でしかなかった。その後、学識を買われ、是非曲直庁で働くことになった後も彼女の頑なな態度は変わらなかった。
 だから、彼女が想いを伝えて来た時は驚いた。
 恐ろしく緊張した面持ちで、早口の事務口調でまくし立てる言葉は最初、意味がわからなかった。良く聞いて判断してみると、彼女は私に交際を申し込んでいたのだ。
 私は悩んだ。あまりにも立場が違いすぎるのだ。新任とはいえ閻魔と、人間から登用された文官とでは吊り合わない。しかし、彼女の真剣さに押され交際を受け入れたのだ。それから二人で隠れる様に逢瀬を重ねた。
 付き合ってみて気がついたことだが、彼女は感情の表現が極端に下手なだけなのだ。女性らしい柔らかい感性も持っている。しかし、職務に没頭するあまり、高圧的な態度しか表にでてこない。だが、彼女は傲岸な訳ではない、その水面下には菩薩のような慈愛が隠れているのである。
 しばらく立って後、私は幻想郷縁起を編纂するために転生を行うことになる。
 転生を初めて行った際、性別が変わってしまったのは驚いたが、今では慣れた。次の転生も女、その次も女だった。いつしか、私の転生は阿礼乙女という形で定着していた。
 映姫も初め、同性になってしまった私に戸惑っていたようだが、二人きりの時は以前と変わらぬ態度で接してくれる。
 あれからどれだけ経ったのだろうか? 転生を繰り返し、求聞持が生み出す膨大な知識に押しつぶされて、朧気になっていく自我の中でも、映姫の記憶は鮮明で薄れることがない。そしてたまらなく愛おしいという感情も。

 

「どうしたんだい阿求? さっきからニコニコしちゃってさ」
 いけない。顔に出てたみたいだ。
「いえ、ちょっと昔の事を思い出しただけです。それよりも、随分と経ったみたいですが、あとどれくらいで着くんですか?」
「うーん、四半刻ってところだね」
「そうですか……早く着かないかな」
 手をかざし水平線を見つめる私を、小町はおどけて真似して笑っている。私の心は既に、彼岸の向こうの愛しい人に向かっていた。

 

 彼岸を抜けて是非曲直庁へ到着した。物々しい名前ではあるが、非常に質素な作りの建物である。庁舎の周りには彼岸花が咲き誇り、彩りを飾っている。
 庁舎に入ると、死神や鬼達が忙しそうに書類仕事に勤しんでいる。
 私と小町は、そんな光景を傍目に奥へ向かう。
 他の設備と比べると荘厳な扉の前に立つ。小町は扉をノックした。
「四季様ー? 阿求さんをお連れしました」
 扉の奥から入りなさいと声が聞こえた。
「はいはい、じゃ、失礼しますよっと」
 小町と私は部屋に入った。内部は法廷になっており、裁判長席には彼女が佇んでいた。
 楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥ。一段と高くなった裁判長席から私を見つめている。
 私はしばし、見つめ合う形で彼女に見惚れてしまう。
 小柄で華奢ではあるが、姿勢を正しく保ち、谷川のような清冽さを保っている。長い睫毛の下には翡翠の様な双眸がある。その視線はぶれる事がなく、私の背後にある真実まで見抜こうとしてるようだ。慣れてはいるが今でも臆してしまう。髪型はアシンメトリーであるが、不思議と調和している。顔立ちは端正である。だが、それが却って裁かれる罪人の罪深さを意識させてしまうだろう。
 静まり返ってしまった法廷の沈黙を破ったのは小町だった。
「あれー、四季様、今日はなんか美人ですね。薄化粧までしちゃってるじゃないですか」
「……小町。持ち場に帰りなさい」
「えー、つまんないです。ちょっとぐらいいいじゃないですか?」
「小町、二度は言いませんよ?」
 小町は、頬を膨らませて法廷から出て行った。映姫は不機嫌そうに首を振ると、言葉を切り出した。
「さて、遠路はるばるご苦労でした阿求。今回の異変の報告は、諜報部も心待ちにして待ってました。予想していた以上に早く編纂が完了した事は素晴らしい。是非曲直庁幻想郷支部の長として礼が言いたい」
 映姫は制服の角帽を取って頭を下げる。
 映姫のよそよそしい態度に圧倒されてしまう。いや、分かっている。彼女が業務を行っている時はこうなのだ。慇懃無礼だと思えるほど礼節を怠らないのである。
「……いえ、これが私の仕事ですから映姫様。貴女のご期待に添えて嬉しいです」
「ありがとう。では早速、縁起の新章を頂けないでしょうか? 分析官に転記させましょう」
 映姫が手を打つと、扉から制服を着た死神達が入ってきた。私は雑嚢ごと資料を手渡す。
 映姫は顎に手をやり考え込む。
「さて、今回の異変は、小人族による幻想郷の力関係を転覆させる目的の物と言いましたね? 弱き者が見捨てられない楽園……ですか。被害は兎も角、その思想を無視するのは、司法を司る者として避けなければいけないでしょう」
「そうですね。彼女は天邪鬼に騙されて利用されただけです」
「情状酌量の余地はあるということですか。いずれにせよ死後までの行いで私は断じます」
 私は頷いた。映姫に任せれば幻想郷に最も適した判決を下してくれるのだ。私は信頼でもって映姫を見つめた。

 

 話が一段落した頃、映姫は独りごちる様に宙に視線を漂わせ、なにやら落ち着かない様子で話し始めた。
「……ところで今日はずいぶん遅いです。このまま帰ると夜が更けてしまいますね。宿は取ったのですか阿求?」
「いえ、映姫様」
「えっと……あー、うん。ならばしかたないですね。私の家に来て泊まらないですか?」
 露骨な咳払いをしながらジト目で合図をしてくる映姫。
「分かりました。そうしましょう映姫様」
 映姫の表情がぱぁっと明るくなる。
「そうですか、ならばしかたないですね。本来ならば仕事と個人的なことは分ける主義なんですがね。今回は特別に泊めてあげましょう。こんなことは二度と無いと思って下さい。あくまでも特別ですからね。分かっていますか? 私が一番嫌いなのは公私混同なのです! 四季映姫は天地神明に誓いましょう! 職務に私情は挟みません!」
 映姫は勢い良く起立して角帽を胸に当て、天を仰いだ。資料を書き写してた死神達は唖然として映姫を見つめてる。
……いや、かえって怪しまれそうなんだけどなぁ。でもあからさまに喜んでいるみたいだしツッコむのも無粋か。

 

 映姫と二人で、暮れゆく彼岸を映姫の家にまで歩く。辺りは帰路に着く是非曲直庁の職員がちらほらと見受けられる。
 映姫は相変わらず姿勢を正して、悔悟棒を胸に、前を直視して歩みを止めない。
 私はそんな映姫の側を離れない様に付いていた。映姫は、頑なに私の存在を無視するようにずんずんと歩いてゆく。手をつなぐぐらいはしたいのだが、離されない様に付いて回るのが精一杯だ。
「映姫様? ふたりきりなんだからもうちょっとゆっくり歩いていきませんか?」
「……」
 映姫は剣呑な表情でじろりと睨み上げる。
 ……いや、これ以上は余計なこと言うのは辞めよう。またお説教が始まってしまう。

 

 映姫の邸宅は、思いの外、慎ましやかな平屋だった。閻魔の住む邸宅としては簡素すぎる。白玉楼や紅魔館を見慣れている私としては、もう少し立場に見合った住居に住んでも良いと思う。たぶん、映姫の潔白さがそれを良しとしないのだろう。
「帰りました」
 奥から女中が走ってくる。映姫は手に持っていた書類かばんを渡す。
「お帰りなさいませ、映姫様」
「あぁ、今日は客人を招いている。夕餉はすこしばかり豪勢にしてください」
「わかりました」
 荷物を受け取った女中はしずしずと奥へ帰ってゆく。映姫は肩肘張った姿勢を少しだけ崩す。私はなんだか気を使わせてしまって申し訳ないような気分になっていた。
「あの……映姫様?」
「阿求。その堅苦しい呼び方をやめて下さい」
 彼女は初めてこちらを向いて苦笑して首を振った。
「前会った時からどれぐらい経ったのかな阿求? 私は随分と待ちわびてた気がします」
「映姫……私もです。だから今回の旅は不謹慎ながらわくわくしてました」
「不謹慎、全く不謹慎ですね。ですが私達はこうでもしないと会えない。今は素直にそれは喜ぶとしましょう」
 なし崩し的に映姫は笑顔を作る。私も釣られて笑っていた。

 

 夕餉が出来るまでにしばらく時間が掛かるという。その間に風呂に入るように映姫は指示をだした。たしかに、長旅で旅塵に塗れている。湯浴みでもしたいと思っていた所だ。
 脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入る。
 浴室は、檜造りで質素なこの家にしては手間を掛けているようだ。檜の程よい香りが漂っている。浴槽には清潔な湯が張られている。
 さて、手早く身体を洗うとしよう。石鹸を泡立てて身体に塗ろうとした時、脱衣所から物音が聞こえた。
 ふと手をやめて物音に耳を済ませていると、さらりさらりと衣擦れの様な音が聞こえる。
「阿求。やはり私も一緒に入ることにしました」
 脱衣所から聞こえたのは映姫の声だった。
 激しく動揺してしまう。いくら長い付き合いでも肌を見せるのには抵抗がある。
「え、映姫! 駄目です!」
「別にいいではないですか……同性なんだから」
 ガラリと浴室の戸が開かれた。
 そこには、手ぬぐいで隠しただけの裸体の映姫が居た。余計な肉付きの無い華奢な肢体をしているが、育つべき所は意外と発育している。すらりとした手足は全身との調和が取れていて、彫刻の様な美しさがある。私は寸胴だから軽く嫉妬してしまう。
「…………何をじっとみてるのですか」
「いえ、美しいなと感じてしまったのです」
「阿求。貴女はすこし好色過ぎるのではないですか? そんな目で見られると緊張してしまう」
「あぁ、す、すみません」
 慌てて目をそらした。だが脳裏には映姫の白い肢体が焼き付いている。求聞持の能力はこういう時に困ってしまうのだ。
 映姫は私の側に腰掛けると、手桶で身体を流した。私は先ほどの緊張から動けないでいる。
「阿求、背中を流しましょう」
「は、はい」
 慌てて映姫に背を向ける。先ほどの光景を忘れるように忘れるようにと念じながら映姫が背中を流してくれるのを待っていた。
 だが、次の瞬間襲ってきたのは背中を洗う湯の感覚では無かった。映姫は後ろから手を回して私の身体を抱きしめた。
「え、映姫。何をしてるのですか!?」
 首だけで後ろを振り返ると、そこには顔を赤らめて泣き出しそうな表情の映姫がいた。震え声で呟くように話し始める。
「……私は待った。待ち続けていた。この一日一日が数万年に思えるぐらい、呆れるほど私は想いを募らせていた。嫌われていたらどうしようかと思った」
 啜り泣く声が聞える。参ったな。映姫はまだ私を抱きしめたままだ。背中からは、ほのかな体温が伝わってくる。柔らかな双丘が押し付けられる感触もたまらない。真剣に答えたいのだが、どうにも集中力が散逸してしまう。
「わかっています。ただ、お互いに忙しい身ですからね。自由に行き来できる訳でもないのです」
「わかっています」
「ねぇ映姫、私達は離れてはいるが心は繋がっている。なぜ、そこまで不安を感じないといけないのですか?」
「……ただ、寂しいだけです。お願いだからもう少しこのままで居させて下さい」
 私達はそうしてしばらく座っていた。

 

 映姫はたまらなく愛おしい。そんな彼女に不安を与えてしまう己に不甲斐なさを感じる。
 私は不安になる。幻想郷縁起を形にするために転生まで行い、性別まで変えてしまった。少女同士の恋愛はどこか不器用で、すぐに解けてしまいそうになる。本来ある自然の摂理に反しているのだ。己の欲望を形にするために摂理まで捻じ曲げた私は裁かれなければならなかったのだ。
 私を裁く閻魔が居ない今、私はどうやって罪を償えばいいのだろう。

 

 私に配膳された夕餉には約やかながら、贅が尽くされている。蕗の香の物、松茸の吸い物に鮎の塩焼きまで付いている。一方、映姫の膳は素食だ。彼女は普段から贅沢を排する為に素食で通してるのだという。
 夕餉を終えて、私達は早々に床に就く事にした。
 並べられた布団に横になりながら、取り留めのない無駄話に花を咲かせる。天井を見上げて、映姫の小町への愚痴を聴く。
「――それだけならばまだ謝ればすむのですが、人里の殆どの酒屋でツケを残してるのです。しかも、それを是非曲直庁の名義で行っているのですよ? 私が直々に口を利いてやらないと懲戒免職ものの失態になるところでした」
「それは……大変でしたね。こちらでも大変なことがあったんですよ。小人族の話はしましたよね? 異変解決後、博麗神社の財政に窮した霊夢さんが、小人族の秘宝を強奪しようと企んでいる事が分かったんですよ。『賽銭箱を一杯にするだけだから、ちょっとぐらいいいでしょ』との事でした。駆けつけた魔理沙さんと咲夜さんに弾幕勝負を挑んで、敗れた後も暴れるので、羽交い絞めにされて終わりました。いやはや、新たな異変が起こらなくて良かったです」
 映姫はクスクスと笑う。やった、今のは自信作だったのだ。
 会話が止まり、二人の間に沈黙が流れる。
 映姫は私の目をじっと見つめる。とても真剣な眼差しだ。私はその視線を受け止める。しばし見つめあった後に映姫は切り出した。
「阿求。転生をやめて、一緒に暮らしませんか?」
 映姫は唇をきゅっと結び、哀願するような目つきでこちらを見つめてる。
 月夜が障子を通して柔らかな光を落としている。障子の隙間からは、一条の光線が二人の間を分かつ様に射していた。とても静かな夜だ。
 私は、ゆっくりと身を起こした。
「……私は、幻想郷で起こる遍く事象を読み取り、民を守る縁起を編纂する為に、貴女に魂を預けたのですよ映姫? 貴女がそんな風ではどうするのですか」
 自分自身で話す言葉が、こんなに乾いた響きをする事に驚いた。
 映姫。そんな悲しそうな顔をしないでください。私は罪深い。本来ならば貴女に愛される資格など無いのだ。

 

 ねぇ映姫。二人が出会って千年以上の時が過ぎた。その間、何度もの転生を行って異なる姿で貴女と再会した。それでも貴女は私に変わらぬ慈愛を与えてくれた。
 だけれども、私は思う。私達は過ちを犯したのだと。やはり、御阿礼の子などと言う方法は禁忌でしか無かったのだ。
 貴女を強く抱きしめたい。その不安を払拭してあげたい。しかし、この脆弱な少女の肉体ではそれも叶わない。私は、どうしたら貴女を幸せにする事ができるのだろう?
 あぁ、ようやく気が付いた、これが私に与えられた罰だったのか。
 永劫に回帰し続ける世界の中で、たった一つの真実を目の前にしながら、手を出すことも叶わない。
 映姫は果てしなく美しい。しかし、硝子張りの部屋に閉じ込められた様に、私には見つめることしか出来ない。
 揺蕩う刻の中で罪の意識に焼かれ続ける。これはまるで煉獄だ。
 ねぇ映姫。私はどうすればいいんだろう?

 

—————————————-

 

 私は一人、執務室で書類に向かっている。時刻はやがて巳の刻を半ばまで回ろうとしている。
 落ち着かない。阿求がまだ彼岸に居るという事実だけで、足元がふわふわするような感覚に囚われてしまう。
 本当なら、職務など放り出して彼女の元へ飛んで行きたくなるのだが、是非曲直庁の責任者としてそんなことは許されない。
「……ふむ」
 万年筆を放り出して、椅子から立ち上がる。窓際まで歩き、裏庭を眺めた。
 裏庭では、竜胆の花が咲き誇っている。
 この裏庭は私が管理しているものだ。土質が極端に悪い彼岸では、彼岸花しか自生しない。私は特別に許可を貰い、土を入れ替えて他の植物も育成できる様にした。時折、気分転換で土いじりをしている。
 室内は、ホールクロックが時を刻む音しか聞こえない。快い静寂だ。
 私は、昔のことを思い出してしまう。これも阿求が訪れてくれた為だろう。二人の出会いの光景が脳裏を占めていく。

 

 初めは罪人としか見てなかった。次にいけ好かない奴だと思った。そしてどうしようもなく気になる存在になり、何時しか愛するようになっていた。

 

 私はまだ、成りたての見習い閻魔だった。先輩たちに司法が何たるかを教わりながら、是非曲直庁の書類整理などを行っていた。
 ある時、十王裁判を見学する機会に恵まれた。
 被告人は、古事記を編纂した著名な編纂者なのだという。名を稗田阿礼。生前の功績を讃えられ、天照大御神によって神に抜擢されたのに恐れ多くも拒絶したらしい。
 是非曲直庁全体がピリピリした空気に包まれている。天照大御神から、即座に無間地獄に落とせと強要されているとのことだ。稗田阿礼の裁判では、特例的に十人の閻魔王全員を集めて一度に聴聞を行うのだという。
 十王裁判が始まる。私は傍聴席に居た。
 裁判官席には、秦広王・初江王・栄帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王と、全ての十王が並んでいる。
 地獄の獄卒に引き立てられながら、稗田阿礼が法廷に入ってくる。
 どんな極悪人が入ってくるかと思っていたが阿礼は、線の細い、どこか飄々としているが朴訥な青年だった。
 まぁ人間は見た目ではないだろう。いずれにせよ、閻魔の裁判では生涯全ての罪が暴かれる。ましてや十王全員が揃っているのだ。あの青年はすぐさま丸裸にされて無間地獄に叩き落とされるはずだ。

 

 十王裁判はおかしな方向に進んでいた。
 浄玻璃の鏡で生前の行いを検索して、本人が気付いていない罪を告発するのが、閻魔の常套手段である。だが、阿礼は生前の全ての行いを記憶していて、訥々と弁明するのである。しかもその全てが合理的であり、矛盾点が見つからない。
 これには十王も混乱しているようである。天照大御神からの要請である。なんとか無間地獄に落とさないといけない。しかし、咎める事が出来ないのである。
 五道転輪王は考えこんでいるようだ。やがて咳払いを一つして威厳あるバリトンで朗々と弁じた。
「稗田よ、一つ問い質したい事がある。何故、天照大神からの誘いを断った? 神にしてやろうと言ってるのだぞ? 人間の身には余る光栄のはずだ」
 俯き加減だった阿礼は、五道転輪王からの問いかけを受けて面を上げた。
「……私が生まれた村では、度あるごとに天災が起きて飢饉になっておりました。原因を調べてみると、神々の些細な諍いから天災が起こっていたのです。荒ぶる神を治める手段を研究した結果が古事記でした。私は気付いてしまったのです。神々はあまりにも人間臭く、人間が持つ業から逃れられないでいる。神々の気まぐれで、多くの人間が死んでゆく。私は、そんな神々であるよりは、人間でありたいと思ったのです」
 阿礼の弁論を聴いて、五道転輪王は溜息を付いた。
「……なぁ稗田よ。なぜそれを天照大神に直接伝えなかった?」
「右大臣様より伝達を受けたので、そのご返事でお伝えしました」
 やれやれと五道転輪王は首をふる。振り返ると十王を招き寄せる。十王は喧々諤々と議論を行った。
 やがて議論が纏まった様だ。五道転輪王は木槌を叩き、威厳ある声で弁じる。
「稗田よ、僅かばかりの学を鼻にかけて調子に乗ったな。お前は閻魔王の元で永劫にタダ働きだ!」
「ありがとうございます。精一杯務めさせて頂きます」
「……もういい、連れて行け」
 木槌が打たれ、十王裁判は閉廷した。

 

 私は、驚嘆の思いでそれを見ていた。
 あの稗田阿礼という青年は、天照大御神と十王、その両方に逆らって、殆ど無罪と言っていい内容を勝ち取ったのである。
 私には五道転輪王様の判断は理解できなかった。阿礼は古事記の編纂者とはいえ、ただの人間である。閻魔がその気になれば地獄に落とす事は出来たはずだ。温情を与えるにしても是非曲直庁で働かせるのはやり過ぎではないか?
 私にはまだ分からない。だが五道転輪王様は何かが見えていたのだろう。

 

 次の日から稗田阿礼は是非曲直庁で働く事になった。配属先は閻魔王の下、つまり私と同僚になるのである。
 阿礼はめきめきと本領を発揮した。一度見た事は即座に答える事が出来るのである。書類作業で阿礼は強力な存在になった。閻魔王様も密かに重宝している様だ。
 一方、私は焦っていた。地蔵から閻魔に成りたての私は、周りから軽く見られないように睡眠時間を削ってまで業務に励んでいたのだ。
 ところが、阿礼が現れてからというもの殆どの業務を阿礼がこなしてしまうのである。いつからか私は、阿礼を敵視するようになっていた。

 

「ふう……」
 私は是非曲直庁の裏庭で休憩していた。午後を少し過ぎた時間でうららかな日差しが差している。
 最近は、ここを訪れる頻度も多くなっている。阿礼が業務の殆どを処理するお陰で閻魔王配下は暇ができているのだ。
 苛々する。ちょっとばかり仕事が出来るからといって私の仕事まで奪わないで欲しい。少しばかり皮肉でも言ってやろうかと思ったこともあったのだが、人当たりが柔らかいので職場でも人気者なのである。そんな阿礼に辛く当たれば、私が悪人ではないか。
 持ってきた水筒を開く。傾けて喉を潤そうとした時、足元にあるものを見つけた。
「……これは」
 乾いた土の上に一本の花木の苗が生えていた。珍しい。この辺りは彼岸花しか生えないのだが、どこからか種が飛んできたのだろう。
 だが、環境が悪すぎる為か萎れかけている。このままではすぐに枯れてしまいそうだ。
 私はなんだか見過ごしてはいけない様な気持ちになっていた。
「お前もがんばりなさい」
 手持ちの水筒を傾けて、苗に水をやる。
 うん、さっきよりは元気になったみたいだ。
 背を伸ばし、欠伸をする。
「……ふぁー」
 やれやれ、そろそろ職場に戻らないと行けないだろう。また阿礼の顔を見ないといけないと思うと少しだけ億劫だ。

 

 裏庭で名も無き苗木に水を遣るのは日課になっていた。苗木は萎れかけていたが、どうやら立ち直った様だ。今では新芽を出してすくすくと成長している。
 私は、苗木にその日あったいろいろな事を話しかけていた。
 仕事でヘマをして閻魔王様に怒られた事。先輩たちに色んな事を教わった事。そして、相変わらず阿礼が気に食わない事。
 苗木は私の言葉に答えるように風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。思わず微笑んでしまう。可愛い奴だ。

 

 いつものように休憩時間に裏庭に向かう。
 今日は久々に腹が立つことがあった。書類を提出したのに閻魔王様は阿礼の書類の方を優先したのだ。抗議したが受け付けられなかった。その場に阿礼も居たのだか、何事も無い様な涼しい顔をしていた。
 苛々する。今日もあの苗木に聞いてもらおう。裏庭まで歩いてゆく。なんだ? 今日は裏庭に誰か居るようだ……。
 苗木の前に誰か立って居る。よく見ると、それは、阿礼だった。
 げっ、と思わず口に出してしまう。苦々しい気分が胸の中に広がる。
 私は何事も無いような平然を装って、阿礼の元へ歩いて行った。とびっきりのしかめっ面を作って言葉を出す。
「何をしてるのですか!」
「……貴女でしたか。いえ、珍しい植物が生えているので、つい見惚れてしまったのです」
 阿礼はしゃがみ込んで、苗木を見つめてる。ムカムカする。それは私の苗木だ。たかだか人間が、ここに踏み込んで来るのは許されない。
「さっさと持ち場に戻りなさい。阿礼。貴方と閻魔王の契約は永劫のタダ働きなのよ?」
「私が気に食わないなら、直接言葉にしてもらっても良いのですよ映姫様? 少なくともこんな所でこそこそと独りごちる必要はない」
 見られていた! しかも、阿礼への悪口を聞かれていたのか!
 顔が火照る。こんな屈辱は初めてだ! 思わず感情的に叫んでしまう。
「仕事が出来るからって調子に乗らないで! 貴方はただの人間なのよ。閻魔に逆らうことは許されない!」
 阿礼は激高した私の言葉を、涼しげに受け流す。
「ふむ、それもそうですな。失礼した映姫様。あまりにも大事に育てているから、つい目に止まってしまったのですよ。別に他意はございません」
 飄々と阿礼は頭を下げる。気に食わない。まるで馬鹿にされてるようだ。
「それでは失礼します映姫様。あぁそれと、肥料をやった方がいいですよ。少し、栄養不足になりかけている」
 言いたいことだけ言い終えると、阿礼は裏庭を去った。
 私は肩を震わせながら一人裏庭に立っていた。絶対に許さない! 私が司法の場に立てる様になったら、地獄に叩き落としてやる!

 

 私はその日から、阿礼を徹底的に無視するようになった。
 同僚たちは、どこか心配げに私達の様子を見守っていたが、業務に支障が無いことが分かると、やがて慣れてしまった様だ。
 苗木は少し元気をなくしてたのだが、肥料を与えると元気になった。今ではつぼみを付けて花を咲かせようと用意している。
 阿礼が言っている事はいちいち正論だったのだ。気に食わないが。
 それから数日は、何事も無く日常が過ぎていった。

 

 ある日、是非曲直庁の周辺に嵐が訪れようとしていた。
 空を見上げると、黒々とした雲がとぐろを巻いている。風が強くなり亡者の悲鳴の様な風音を立てている。今夜、嵐はここまで到達するのだという。
 私は、苗木が心配で気が気でなかった。今すぐにでも駆けつけて行きたいが、勤務時間中である。もうすぐ勤務が明ける。すぐにでも裏庭に行ってみよう。

 

 勤務が明けて、私は裏庭に駆けつけた。
 轟々と風が吹き。苗木も吹き飛ばされそうになっている。
 いけない。私は苗木の前に立ち、風を遮った。なんとかカバーすることは出来るようだ。
 半刻程経って、次は雨が降り出してきた。冷たい氷雨が横殴りに叩き付けてくる。
 制服のブラウスが肌に張り付く。背中に弾丸のような雨粒が突いて来る。
 寒い。風と雨に体温を奪われている。嵐は何時になったら通り過ぎるのだろうか? 辺りはもう真っ暗である。暗闇の中で私は訪れない夜明けを待っていた。
 また一段と風が強くなった。背中を丸めて吹き飛ばされない様にする。
「……?」
 何故か急に風が弱まったようだ。雨も先ほどまでの勢いがない。
「……貴女は、一体なにをしているのですか?」
「えっ!」
 振り返ると、体を張って風と雨を遮っている阿礼の姿があった。
 何故? また私を馬鹿にしに来たのか?
「全く……、勤務が明けてすぐに裏庭に走っていくからひょっとしてと思ったのですよ。嵐は朝まで続くそうです。ずっとそうしてるつもりだったのですか?」
「うるさい! お前には関係ない! 邪魔をするなら何処かへ行け!」
「貴女は、聡明なのに行動が感情的すぎる」
 阿礼は、私と苗木を合わせて抱え込む様に後ろへ立った。
「朝まで私も付き合います。身体が冷え切ってるでは無いですか。このままでは貴女まで危険だ」
 濡れたブラウス越しに阿礼の体温が伝わってくる。体温が高いのか少し熱い。線が細いはずなのに意外と広い胸幅をしている。
 大嫌いな阿礼に抱きしめられているのに嫌悪感は不思議と無かった。
 彼の人となりが分かった気がする。彼は大樹の様に年輪を重ねた性格をしているのである。私の持つちっぽけな虚栄心など、彼にとっては対した問題じゃないのだ。
 熱い涙が頬を伝う。何故だろう、私を縛っていた全ての鎖が解けていった様だ。
「どうかしたのですか映姫様?」
「……なんでもない!」
 阿礼の顔が直視できない。心臓が早鐘を打っている。あぁ、こんなに密着してる。気付かれたらどうしよう?

 

 嵐は通りすぎて、やがて橙色の朝焼けを迎えた。昨晩の喧騒が嘘だったように静かな朝を迎えていた。二人共、ドブネズミみたいに上から下までぐしょぐしょだ。朝の清らかな空気が少し冷たい。
 苗木はなんとか守り切った。風に揺られてゆらゆらと揺れている。良かった、枝葉も無事だし、蕾も取れていない。あの嵐を乗り越えたのだ。
「やりましたね映姫様」
「…………」
 そんな真っ直ぐに見つめないで欲しい。つい、視線が泳いでしまう。
 こっそりと阿礼を窺い見る。朴訥とした青年でしかないと思っていたのが、凛々しさと涼やかさを併せ持つ意外な一面を見た。
 阿礼は不思議そうな表情でこちらを見ている。
「映姫様、顔が赤いですよ? 熱でもあるのでは無いですか?」
 阿礼は手を私の額に当てる。
「!!」
「……やはり凄い熱だ。顔が真っ赤ですよ。早く家に帰って休んだほうが良い」
 私はこくんと頷く。一刻も早くこの場を離れたい。これ以上、阿礼と共に居るとどうにかなってしまいそうだ。
 阿礼は訝しげな表情で佇んでいた。……人の気も知らずに……やっぱり小憎らしい奴だ。
 己の中の感情に驚いていた。まさか、閻魔の私が、こんな人間の若造に恋をしてしまうなんて。

 

 不意に没入してた思考が引張戻される。何者かが扉を叩いている。
 小町だ。扉の外でがなり立てている。
「四季様ー。阿求を迎えに行ってきますよー。午後には船着場ですからね、忘れないでくださいねー?」
「早く行ってきなさい!」
 まったく! 思い出が中断してしまった。
「……ふう」
 椅子に腰掛けると、引き出しの一番奥から小箱を引っ張りだす。執務机の上に箱を乗せて、蓋を開く。
 中には、大輪の椿の花が一輪入っていた。あの時の苗木の花だ。特殊な薬液に漬けてプリザーブドフラワーにしている。
 あの時の苗木は椿の木だったのだ。蕾は数日して綻びて、大輪の純白な椿の花を咲かせた。
 私は、それを泣き出さんばかりに喜んだ。阿礼も一緒になって喜んでくれた。
 二人にとって、椿は特別な花になった。
 阿求が今付けている椿の花飾りは、私が阿一の頃に送ったものだ。転生したばかりの阿一はガサツな少女だった。少しは女の子らしい振る舞いでも覚えて欲しいということから椿の花飾りを送ったのだ。それから千年以上も大事そうに身に付けているのだから、逆に物持ちの良さに呆れてしまう。
「ふむ……」
 転生した阿礼は幻想郷縁起の編纂に全てを捧げてきた。今でこそ、幻想郷縁起は妖怪たちの自己PRの場となっているが、初期の頃は、人間達が生死を賭して、妖怪の成り立ちや弱点を研究した書物だった。
 八雲紫。あの忌々しい妖怪の賢者。随分と丸くなったのだが、未だに胡散臭い。幻想郷縁起は、私が八雲紫に対抗する為に阿礼に要請して書かせた物だ。
 沈思黙考する。再び思考は千年以上の時を駆ける。

 

 私が、幻想郷という新興の世界の担当になったのは阿礼と付き合い始めて随分と経った後だった。
 閻魔王様から話を伺う所、八雲紫なる人物が、結界を使い、新たに立ち上げた世界なのだという。未だに閻魔が居なくて、無法地帯になっているとのことだ。
 軽く浮かれていた。新興の世界とはいえ、司法の場に立つことが出来る。しかも、その世界の是非曲直庁支部の責任者への栄転だ。
 私は快諾した。阿礼の事が気になったが、暫くの間は幻想郷支部に出向するということで話が纏まった。
 私はまだ理解してなかった。阿礼ほどの有能な人物を送り込む幻想郷という世界がどんなに厄介な案件なのかということを。そして後々になって軽率だったと後悔した。

 

 着任して初めに手を付けたことは、死者の魂からの事情の聞き取りを徹底することだった。
 事情を聞き取ってみて驚いたことは、殆どが外の世界から迷い込んだ人間の魂だったことだ。
 いろんな魂から意見を聴いて察するに、八雲紫という者は、外から連れてきた人間を餌に、強い妖怪を幻想郷にかき集めて放し飼いにしているのだ。
「はぁ……」
 眉根を揉んだ。この人物は何を考えているのだ? 人間の魂を軽々しく扱い過ぎだ。一度、出向いて説教してやらないといけないだろう。

 

 私と阿礼はマヨヒガを訪れた。
 森林を抜けた先には、広大な隠れ里が広がっていた。一見無人の里に見えるが、気配を消して妖怪達が潜んでいるのが分かる。なんだこれは? 物々し過ぎる。まるで、戦争でも起こそうという数の妖怪達が住んでいるではないか。
 ますます八雲紫と言う人物が、よく分からなくなる。調査によると、妖怪達の強い支持を受けた元締めのような存在なのであると言う。
 里の最深部に八雲屋敷がある。
 辺りは深々として虫の音すら届かない。屋敷は深い沈黙を纏っており、本当に人が住んでいるのかどうかすら怪しいものだ。
「すまない、主人は在宅か?」
 阿礼が、玄関先で呼び掛けるが反応が無い。
 光源が無い室内は、殆ど暗闇だ。呼び掛ける声も闇に吸い込まれていく。
「……反応がありませんね。本当にここに住んでいるんですかね?」
「……」
 私は茅葺きの屋根を見上げた。虚しくなるような青空の下、存在だけは確かに有ることを示している。
「……仕方ない。出直すことにしよう」
 帰ろうと思い、阿礼に話しかけた時、その声はした。
「客人か?」
 慌てて振り返ると、暗闇のなかに蒼白な顔が浮かんでいた。よく見ると大陸の式神の服を着た従者の様だった。
「客人か?」
 従者は再び問う。
「映姫。あれは……」
「分かってる。九尾の狐だ」
 亡国の妖狐、白面金毛九尾の狐。大陸で猛威をふるい一国を滅亡させた。そんな者を従者に使っているのか。
「是非曲直庁から訪れた、閻魔の四季映姫という者だ。主人の八雲紫にぜひ会いたい」
「……承知した。暫し待たれよ」
 九尾の狐は暗闇に溶けるように消えた。
 ……九尾の狐を式神にしているのか? 尋常ではない。調伏するだけでも恐ろしく力を使うはずだ。それをほんの軽輩の様に扱っている。非凡などと言う類ではない、禁忌に近い方法を取ってるはずだ。
 暗闇の中から、再び九尾の狐が現れる。
「会うとの事だ。付いて来られよ」
 九尾の狐はしずしずと歩いてゆく。私達は、その後に付いて奥へ進んだ。

 

 奥にある床の間で、私達は待たされた。縁側の向こうには整えられた庭園がある。美しいのだが音がない。全くの静寂だ。
 気取られない様にはしているが、不安になってしまう。マヨヒガ、九尾の狐、八雲屋敷。それらを見る限りでも八雲紫は尋常ならざる人物で有ることが分かる。まぁ、話せば何とかなるだろう。
 音もなく襖が開く。九尾の狐が三指をついて現れる。
「お待たせいたしました。紫様が参りました」
 九尾の狐の後ろから、一人の女性が現れる。大陸から来たのか? 式神と同じく大陸の服を纏っている。見た目の美しさとは不相応な剣呑な気配を漂わせている。切れ長の目でもって流し目でこちらを観察しているのだが、ニヤニヤと笑いながらするそれは不遜さを感じさせる。
「……貴女が新任の閻魔様? まぁ、可愛らしい人が来たものね。仲良くしましょう。何か困ったことがあったら私を頼りなさい」
 八雲紫はうっすらと目を細め、口元を扇子で隠し、笑顔を作った。
 私は、この人物は心を許してはいけないと、直感的に理解した。目をしっかりと見ればその人物の人となりが分かるのだが、八雲紫は混沌そのもの。闇が深すぎて奥まで全く見通す事ができないのだ。
「私は、今日は貴女を説教に来たのです。貴女は妖怪達の長なのですよね? 人間の扱い方を改めて欲しい。まるで放し飼いの獣に餌をやるように人間を攫うのはやめなさい」
 八雲紫のニヤニヤ笑いが一層強くなる。
「まぁ……、閻魔様は随分と人道主義なのですね。ねぇ映姫様。人間などあっという間に増えますわ。ゴキブリよりも生命力が強い生物ではないですか?」
「……貴女、幻想郷から人間が居なくなったらどうするつもりなのですか?」
「外から拐って来たら良いではないですか。考えるだけ詮なき事です」
 甘えたような声で八雲紫は話しだす。
「ねぇ映姫様。是非とも閻魔様に協力してもらいたい事があるのですわ。この度、私達はあの憎たらしい月人の元に攻め入る事を決めたのです。地獄からも援軍があると心強いですわ」
 私は、激情を面に出さないようにするのに必死だった。成程、こういう人物だったのか。阿礼も、隣で心配そうに見つめてる。分かってる。だが、こんな奴にはガツンと言ってやらないと駄目だ。
「……八雲紫。貴女は一体何様のつもりですか? 妖怪の性とはいえ、絶滅しそうになるまで人間を攫い、挙句の果てには戦争を始めるつもりですか? あまりにも傲慢過ぎる。彼岸に来たらそれなりの裁きが下されると覚悟しておきなさい」
 八雲紫は表情を変えず、ニヤニヤと笑いながら受け答える。
「あらまぁ、怒っているのですか映姫様? 私はただ妖怪達の理想の楽園を作ろうとしてるだけです。金子ならいくらでも用意することはできますわ。悪い条件ではないと思うのだけども?」
 私は、勢い良く立ち上がる。
「帰りましょう! 阿礼!」
 阿礼は、はぁと応じて立ち上がる。苦々しい顔をしている。分かっている。だがこれ以上コイツと話すのは耐えられない。
「藍、マヨヒガの入り口までお見送りしなさい。あぁ、そうそう、その男は映姫様の想い人だから食べちゃだめよ」
「……承知しました。紫様」
 私は八雲紫を睨みつける。相変わらず底が見えない目で口元を隠して笑っている。

 

 マヨヒガから抜けだした私達は、林の中を彼岸へ向かって歩いていた。
「くそ、何なんだアイツは! あれを本気で言ってるのですよ! 信じられない!」
「映姫、少しは落ち着いて下さい」
 大股でずんずんと歩く私の後ろを、阿礼は腕組みをしながら歩く。
「それにしても困りましたな映姫。妖怪達を止める手段は無いようです」
「……どうすればいいかな阿礼?」
 阿礼は考え込む。やがて、口が重い様だが語り始める。
「幻想郷に住まう人間の民達に、知識を与えるのがいいのでは? 私が以前やったように妖怪に対応する知識を書籍にして纏めるのが一番有効です」
「……古事記ですか」
「そうです。あれは荒ぶる神々に対する手段でしたが、幻想郷では妖怪に対してそれを行えばよい」
 私は足を止めて振り返る。
「それはいい方法だと思う。だけど誰が行うんですか? 人間達と共に居て、妖怪を観察する者が必要でしょう?」
 阿礼は俯き考え込む。少し青い顔をしている。やがて億劫そうに口を開く。
「私が行くしか無いでしょう。映姫が協力してくれるなら、転生を行い、幻想郷の民として生まれ変わる事ができます」
 それは……!
「……駄目です!」
「……何故ですか? 今こうしている間にも妖怪に命を奪われている民がいる。それをみすみす見過ごすのですが」
「阿礼。お前は本気で言っているのですか? 転生を行えば私達は長い間会うことができなくなります。それに、お前が殺されるかもしれない場所に送り込むなんて、私にはできない!」
 阿礼は首を振った。
「映姫。私は元々、罪人だった。それを貴女は愛してくれた。貴女は幻想郷を悪辣な妖怪から守らなければならない。私はその手助けをしたいのです」
「阿礼……」
 私は揺れていた。私は幻想郷の閻魔である。職務の上では、阿礼の選択は間違いなく正しいと言うことは分かっている。だが、転生を行えば、阿礼の生は過酷なものになることがはっきりしていた。
「阿礼……私は……」
「分かっています映姫。ただ貴女はこの世界の最高責任者なのです。成すべきことは分かっているはずです」
「……」
 何も、言えなかった。

 

 阿礼を転生させるために、私は是非曲直庁を走り回った。膨大な資料をまとめ、十王様の許可を取り付けた。そうして稗田阿礼は転生した。
 しばしの時が経った。

 

「お久しぶりです映姫様」
 法廷で私は稗田阿一と向かい合っていた。阿一は少女である。紅紫色のおかっぱ頭には、私が与えた椿の花飾りが揺れている。大きな瞳でこちらをじっと見つめてる。
 調子が狂ってしまう。転生前から分かってたとはいえ、阿一は私よりも可憐な少女に生まれ変わってしまった。
「……貴女が見た幻想郷はどうでしたか? 幻想郷縁起の噂は聞いています」
「えぇ、民を纏めるには苦労をしましたが、今では集落を一つ作り、発展に力を費やしている所です」
「素晴らしい功績を残しましたね。次の転生まではこちらで寛いでいなさい」
「ありがとうございます。映姫様」
 私と阿一は見つめ合う。見た目は可憐になってしまったが本質は変わっていないようだ。
 その後も、阿礼は幻想郷の人間達の為に尽くし、やがて人里を創設し、安定した環境を作り上げた。

 

 考えこんでいる間に、時は午の刻にまでなってしまったようだ。そろそろ休憩時間か。午後からは阿求の見送りに行かなければならない。
 しかし、なんだろう? 一つの不審な点があった。私はまた考えこんでしまう。
 阿一、阿爾、阿未、阿余、阿悟、阿夢、阿七、阿弥、そして阿求。
 その全てが阿礼乙女として少女への転生だった。
 何故だ? 少女へと転生しても変わらぬ阿礼にあまり気に留めた事も無かったが、ここまで阿礼乙女への転生が続くのは異常だ。
 疑問は不安になり、むくむくと頭をもたげる。
 私は立ち上がり、本棚に向かった。
 私は御阿礼の子の資料を本棚から取り出した。阿礼乙女の条文を見つけて目を走らせる。
 ……これは……。
 天照大御神の右大臣の要請で、阿礼の転生は阿礼乙女のみで行われる事が特記されている。
 どこで嗅ぎつけた!? 天照大御神の右大臣は嫉妬深い事で有名だ。恐らく阿礼に神になることを断られたことを何百年も根に持ってたのだ。しかし、天界は是非曲直庁で行われることまで目が及ぶはずがないのだ。特に阿礼の転生は極秘事項だ。
 そこで私はあのニヤニヤ笑いを思い出す。八雲紫! あの女が天界に密告したのだ。
 これは……呪いだ。
 恐らく、少女同士が睦み合う姿を見て、どこかで嘲り笑っているのだろう。
 喉から声が漏れる。少しずつ大きくなっていくそれは、哄笑となって執務室に響いた。
 背もたれに勢い良く体重を掛けた。
 成程、やられたよ八雲紫。こういうやり方もあるのか。
「……許してください阿礼。私はあなた一人も守る事ができない」
 自分の発した言葉に心が動じてしまう。瞼を焼くような涙が溢れた。

 

—————————————-

 

 小町は舫い綱を解き放ち、岸辺にそれを放り投げる。なにやら複雑な顔をしている。
「遅いな四季様。見送りには来ると言っていたのに……。いいや、行こうか阿求。あたいだって退屈はしてるけど暇じゃない」
「いいんですか?」
「いいんだ。いつも真面目に働けって言ってるのは四季様だ。あたいは職務を果たすだけだよ」
 船が彼岸の岸を離れる。
 私は岸をいつまでも眺めていた。やがて小さくなりつつある風景には閻魔の姿は現れなかった。
 どうしたのだろう。彼女が約束を破るということは絶対に無いはずだ。
「どうしたんだい阿求? そんな不安そうな顔しちゃってさ」
「……いえ、映姫様の事が心配になっただけです」
 小町は心細そうな顔でこちらを見つめてる。いけないな。小町にまで心配をかけちゃ駄目だ。
「いえ、本当に大したことは無いんです。ただ、こういう事は珍しいので」
「まぁねぇ、うちのボスは言ったことは絶対守るからねぇ」
 小町は話しながらも竿を操る手を止めない。船が河を切る音が一定間隔で続く。
「ほんと疲れた顔してるね。長旅で疲れてんだろう? 向こうまで着くのは随分先だから、寝ときなよ」
「……いえ、私はこうして風景を眺めている方がいいんです」
 変わらぬ遠景を眺め、考えていた。
 映姫は、気付いてしまったのだろう。私の犯した罪と与えられた罰を。
 私は若造だったのだ。得たばかりのほんの僅かな知識で、神々と渡り合えると思っていた。人間の身で神々を越えようとしたのだ。
 だから、十王裁判は上手くやったと思った。映姫との付き合いも初めは打算だった。
 しかし、彼女は本気だった。閻魔でありながら、真剣に人間の私を愛そうとしていたのだ。
 いつしか私は、そんな映姫の為ならばこの身を捧げてもいいと思うようになっていた。
 悪辣たる妖怪達に蹂躙される幻想郷を、映姫は嘆いていた。私は決心した。私の全てを幻想郷の発展のために使うことを。
 幾度かの転生は、魂を傷つけ、自我を削った。私が得意としていた求聞持の能力は、膨大な記憶を残す代わりに、転生の度に自我を削っていくのだ。
 私の魂はいつか幻想郷の記憶に溶けて、消えていくのだろう。
 もう時間はそんなには残されていない。後一度の転生で私は消えてしまうはずだ。
 頭に付けている椿の花飾りに手をやった。
 これは初めての転生の時に映姫が与えてくれたものだ。ボロボロになっていくそれを繕いながら使っている。
 椿は映姫が好きな花だ。
 初めての転生で、生前の習慣が抜けずに不束かな少女になってしまった時、笑いながらそれを与えてくれた。
 今でもその笑顔を思い出すことができる。だがその面影も、今は何処か悲しげだ。
 これで良かったのだ。
 私が消えれば映姫は悲しむ。その時はそう遠くない。
 真実を知ってほしい。私は罪人だ。貴女に愛されるには不相応だったのだ。貴女には貴女の正義を貫き通して欲しい。私なんかに気を奪われないで欲しい。
 もう、映姫には二度と会うことは無いだろう。どんな顔をして会えば良いのか分からない。
 もう見当たらない彼岸を求め、三途の川の水平線をいつまでも、いつまでも見つめていた。

 

—————————————-

 

 昨晩、九代目御阿礼の子、稗田阿求が亡くなった。享年二八歳だった。
 体調を悪くして、長い間の療養も甲斐なく永眠した。
 阿求は人里の為に尽くしてくれた。新たに作られた九代目幻想郷縁起は、いままでの古臭い印象を払拭して、新たな風を吹き込んだ試験的な試みだった。
 益々の発展が見込める矢先だっただけに、この死は悔やまれる。
 里では要人でもある阿求の為に盛大な弔いを行うことにしている。

 

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「ここは……」
 灰色の空。今にも降り出しそうな雲が垂れ込めている。ぼんやりとした思考で、何があったのかを思い出そうとするが思い出せない。
 身を起こす。辺りには死者の燐光が漂っている。三途の川岸か。また死んだのか。何度目だろう? 何時になっても三途の川岸は慣れぬ光景だが。
 さて、どうするべきか。映姫と顔を合わせるのは辛い。気が重くなる。
「あ、いたいた。阿求!」
 ツインテールの死神が私を見つけて駆けてくる。何が嬉しいのか満面の笑みで小躍りでもしそうな様子だ。
 私の前に立つとチェシャ猫の様に笑みを浮かべた。
「待ってたよ! 三途の川にようこそ稗田阿礼! でも何度も来てるんだよねぇ? その格好だと違和感あるよ」
「え?」
「自分の姿を見なよ」
 小町は川岸を指さす。姿を見ろということか?
 私が訝しみながら川面に身を写すとそこには、かつて見た青年の姿が写っていた。なんだこれは!?
「いやー、いい男だねぇ。堅物の四季様が熱をあげる訳だ。ま、あたいのタイプじゃないな」
 どういうことだ? かつての阿礼の姿に戻っているのか? 肉体もあるではないか。
「どういうことですか? 何をしたんですか小町さん?」
「んふー、聞きたい? 小野塚小町の一世一代の大活躍だよ! 刮目して見よってやつだ」
 小町は勿体ぶって見得を切った。
「四季様の執務室に忍び込んで、阿礼乙女の書類書き換えておいたんだ。今回も、自分への当て付けを自分で許可しようとしてたんだよ? 真面目というよりは馬鹿だよねぇありゃ。あたいにゃよくわかんないよ」
 なんて事を……! 下手をすると映姫の立場まで危ういではないか!
「駄目ですよ小町さん! それは不味い!」
「いやー、死神の横の繋がり舐めちゃいけないよ? 二人の関係は何百年もあたい達の噂になってたのさ。どうすりゃいいのかあたいも悩んでいたのさ。だからさ……」
 小町の拳が私の顔を捉えた。背後に吹き飛ばされる。口の中を切った様だ、鉄の味が広がる。
「……アンタのことは気に食わないんだ稗田阿礼」
 小町は胸ぐらを掴みあげた。冷たい眼で私の目を睨みつける。
「何故、四季様を泣かせた阿礼!? 四季様はあれからもずっとお前を待ち続けていたんだぞ!」
 激痛が収まってきた。息を整え、言葉を吐く。
「私は罪深い。裁かれなければならなかった! 愛されてはいけなかった! お前に私達の何が分かる小町! 私は映姫の側に居てはいけない存在だったんだ!」
 小町は冷たい目でまた一瞥すると、襟首を離した。
 小町は河原を少し歩くと、どすんと石に腰掛けた。
「……四季様が裁けないのなら、あたいが裁いてやる。今すぐにでも三途の川に沈めて魚の餌にしてやってもいいんだけどさ、四季様はお前を待ち続けている。あの人に泣かれると、あたいは切り裂かれるように辛いんだ」
 小町は背筋を伸ばし、大鎌の柄で河原を突いた。がつんと音が響く。
「死神・小野塚小町が、罪人・稗田阿礼に判決を下す! 判決・黒! 罪人は幻想郷を出て行け! 但し、四季映姫を連れて、だ」
 不審な表情になってしまった私を、小町は真剣な顔で見つめた。
「男だったら好きな女守ってやるぐらいの甲斐性みせなよ。向こう岸の小屋で待ってな。四季様丸め込んで連れてきてやるから。それから外の世界の友達の死神の所までは連れて行ってやるよ。あたいが出来るのはそこまでだ。そっからさきは……二人で逃げな。是非曲直庁と死神全てが敵だ」
「小町……」
「勘違いするなよ稗田阿礼? あたいは四季様が泣くのを見たくないだけだ」
 小町は立ち上がり、川岸へ歩いて行く。川岸には船が繋がれている。小町は船に上ると振り返る。
「来なよ阿礼。飛ばすよ、いつ気付かれてもおかしくない。これからは時間との勝負だ」
 私はゆっくりと見上げる。黙って乗り込んだ。
「準備はいいかい? 二度と幻想郷には帰れないよ?」
「ええ」
 船が岸を離れる。少し風が出てきたようだ。煽られて船が揺れる。
 迷いは無かった。全てのものが鮮やかに見える。虚ろな輪廻はここに来るために集約されていたのだろう。私の旅はもう少しで終わる。
 私は彼方を見つめる。今度は愛する人の手を再び掴むために。

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ニコニコ動画に東方霽月譚のシリーズを投稿しました

タイトル通り。ニコニコ動画に東方霽月譚を動画化してアップしてみました。

東方手書き劇場好きすぎて、何時かは自分で動画作成して投稿してみようと思っていたので念願叶いました。
再生数100行けば十分と思ってたから、いまみたいにタグやコメントが付いてるのは想定外ですよ!意外と好評で良かった。

原作書いたのが1年以上前になるので、動画の為に絵を描いている時でも追加したいシーンが割とありますね。
特にレミリア周り、咲夜さん周辺は補足しておかないと、自分の想像内だけで完結してる設定があるな。種族:人間は全滅してるわけではないです。

いずれにせよもっと画力が欲しい。pixivでイラストとかも描いてるけど、自分の想像する理想の十分の一も表現できてない。
ストーリーを作るほうが好きだから小説書いてる時もいいんだが、やっぱり人への訴求力ではイラストや音楽に及ぶものではないよなぁ。一瞬で人の感情を変えることが出来るってのが今回の動画作成で分かって、その考えが実感に変わりました。

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東方霽月譚

  東方霽月譚             椎野樹

 

 宵闇の月が中天に掛かる頃、私は一人、邸宅にて、酒が入った湯のみ茶碗を傾けていた。
 濃い紺色に染まりつつある庭では、鈴虫達が涼やかな音色を奏でている。
 私は、薄暗くなる茶の間で、その音に耳を傾けつつ、湯のみにまた酒を継ぐ。薄ぼんやりとした夕暮れには、そろそろ慣れてきたとはいえ、寂寞とした思いに囚われる。
 紫様や藍様と共に暮らしていた時は、この時間帯は夕食時で、一家団欒の賑やかな時を過ごしていたものだ。……遠い昔の思い出とはいえ、あの頃の満たされていた幼心は、未だに忘れられない。
 幼き日々の思い出は、一人となった私の胸を締め付ける様な寂しさを沸き起こしてしまう。
「……思えば、ずいぶんと長く生きた」
 幼少の思い出は、色が付いた様に生き生きと思い出せる。
 妖精たちと共に遊び、いたずらをしては藍様に怒られた事。怒られた事に拗ねてしまい、マヨヒガに家出をした事。寂しくなって結局、夜には八雲宅へ逃げ帰ってしまった。その時は、夜遅いにも関わらず、藍様が寝ずに待っていてこっぴどく怒られた。だけども藍様はその後、抱き寄せて、頭を優しく撫でてくれた。
 思い返すと幻想郷もずいぶんと様変わりをしたものだ。
 史上最も強いと言われた博麗の巫女が亡くなり、スペルカードルールは以前ほど有用な手段では無くなった。それでも幻想郷の管理者として、博麗の巫女は代々受け継がれ、当代の博麗の巫女は、私が後見人として育てている。
 これは思い出したくもないのだが、紫様はある年の冬に眠りについて、そのまま目覚める事は無かった。思い出しても胸が締め付けられるようだ。あの時の悲しみはもう二度と経験したくない。
 紫様が長い眠りにつかれてしまうと、式神としての意味を無くした私と藍様は八雲家を離れた。初め、私はマヨヒガに移り住もうとしたが、それでも、居心地の良い八雲家が忘れられず、またここに戻ってきてしまった。
 それから、勝手ながら私は八雲姓を名乗り、霖之助に頼み、紫様や藍様と同じ式神の服を仕立て、八雲家に住み着いている訳だ。
 紫様は、幻想郷の守り神として博麗神社に祀られている。そのため、八雲紫と博麗神社を柱とした博麗大結界は破られずにいる。
 藍様は、……私はあれから長いこと再会した事がない。
 長いこと思い煩っている内に、庭は、漆黒の闇へと包まれていた。蛍の光が庭木に宿り、ふわりふわりと燐光が踊っている。
 酒瓶を手に取り、残りを継ごうとすると中身が無い。酒が切れたようだ、明日、人の里で木天蓼《またたび》酒を買ってこよう。

 

 次の日、私は人の里に降りるついでに博麗神社を訪れた。
 境内から少女達の賑やかな声が聞こえる。その声の主は、光の三妖精と博麗の巫女だった。
 サニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイアの三者は、それぞれ昔と変わらぬ小さな少女の姿だ。妖精はそれぞれの根源となる精気からなる存在で、どれだけ経っても姿が変わることはない。
 当代の博麗の巫女は、博麗の血統から選ばれた十歳の少女で、おかっぱ頭に大きなリボンを付け、くりくりとした目が特徴的である。服装は博麗神社伝統の巫女服である。その名を博麗魅月という。
 彼女たちは、何やら花火で遊んでいるらしい。少し離れた私の所まで硝煙の焦げた匂いが漂ってくる。
「だからさ、このヘビ花火に火をつけると、みょーんって伸びるんだよ」
「うわー、気持ち悪いよ。もっと綺麗な花火は無かったの?」
「うーん、手に取れる分を適当に取ってきただけだからね。もっと大きな花火は持ち運べなかったんだよ」
 なにやら遠くで聞いている分でも、また人間の家から盗みを働いたらしい事が分かる。少し、注意してやるべきかもしれない。
「こら、お前たち、何をしているんだ?」
「橙さま、こんにちわ」
「あっ、化け猫!」
「橙だよ。勝手に大きくなった化け猫だよ」
「ふんっ、だ、化け猫風情に私達が何しているか言う必要はないわ!」
 光の三妖精は生意気な口を聞く。懲らしめてやる必要があるだろう。
「へぇ爆竹か。懐かしいな。貸しなさい」
 サニーミルクから爆竹をひったくると、妖精たちの輪の中心にあった蝋燭で火を付け、妖精たちの方へ放り投げる。勢い良く導火線が燃えた爆竹は、大きな音を立て弾け飛ぶ。
「うわぁ! なにするんだ!」
「化け猫が暴れだした!」
「ここは一時撤退よ!」
 光の三妖精は爆竹に恐れをなし、風を巻いて逃げ出した。大音響で響いた爆竹の後には、境内に静寂が取り戻される。境内には、私と魅月だけが残っていた。魅月は少しうろたえた表情をしている。
「魅月? 妖精どもと遊ぶのはいいけれども、いけない事をしているようならば注意してやりなさい」
「はい、ごめんなさい、橙さま」
 魅月は、目に涙を一杯に溜め、こちらを上目遣いに見上げる。正直言って、たまらなく可愛い。私にはまだ子供がいないが、母性本能がくすぐられるというのは、この子の事を言うのだろう。私は無意識の内に微笑んでいたに違いない。
 魅月の頭に手をやり、そっと撫でる。さらさらの髪が掌をくすぐる。魅月の顔を眺める。先ほどの不安そうな表情はどこかへ行ってしまったようだ。
「いいか魅月? 友達というのはな、いつも楽しく遊んでばかりだとは限らないんだ。悪い事をしている時は注意してやるのも友達というものだぞ」
「はい! 分かりました橙さま」
「よし、魅月はいい子だ」
 また魅月の頭を撫でてやる。幻想郷の懸案事項として、この子の後見人をしてやっているがこの調子ならば大丈夫だろう。
 そういえばそうだった。大事な用事を忘れる所だった。
「この所変わった事はなかった?」
「そういえば、蝙蝠が手紙を運んできました」
 魅月は履物をそこそこに脱ぎ捨てると、社務所の中にぱたぱたと駆け込んでいく。奥から駆け戻る魅月の手には、真紅の封筒が握られていた。
 魅月から封筒を受け取った私は、封を切り、その内容を黙読する。
「ふーん、フランドール・スカーレットの誕生パーティのお誘い、か。博麗神社にも届いていたんだな」
「どうしましょうか? 橙さま。紅魔館の主のお誘いだし、わたしも行ったほうがいいんでしょうか?」
 私は少し沈思黙考する。魅月は影響を受けやすい年頃だ。あまり、自由奔放すぎる妖怪たちと交わり過ぎるのも考え物だろう。ましてや、あのスカーレット姉妹は、幼い子供には悪影響が過ぎる。
「いや、紅魔館のパーティには、私が出席するよ。魅月は行かなくてもいい」
「でも、折角のお誘いだし、わたしも紅魔館の中を少し覗いてみたいかも……」
「魅月、世の中にはな、染まると困る種類の妖怪もいるんだよ。見習うんであれば、寺子屋の慧音先生の様な人と付き合う方が良い」
「ちらりとレミリアさんをお見受けしたことはあるんですが、そんなに酷い人なんですか?」
「あー……、大人の話だよ。よその人に私がこんな事を話していたなんて言っちゃだめだぞ?」
「そうなんですか? 分かりました」
 「お茶をいれますね」と魅月は社務所の中へ駆け戻っていく。よくできた子だ。私は縁側に腰掛ける。
 境内には早い蜩の声が鳴り響いている。雲の影と共に涼しい風が吹き抜ける。どうやら今年は熱い夏になりそうだ。

 

 手紙に書かれた指定の日、私は紅魔館を訪れた。
 館の中は、以前も見たように豪奢な家具や絵画類が配置されている。今日はパーティの為か、立食形式でディナーが並べられている。妖精メイドたちは、訪れた来訪客にワインが入ったグラスを手渡す。
 受付をしていた紅美鈴に手紙を差し出し、少し立ち話をした。
「橙さん大きくなりましたねー、以前はこのぐらいしか無かったのに、いつの間にか身長抜かれてしまいました」
「いえ、まだほんの子供でしたから。美鈴さんはいつまで経っても若々しいですね」
「私の種族はこれで成人型ですからね。これ以上、成長することはないんです。いやなんだかいろんな人が成長しているのを見ると、私がおばあちゃんになった気分です」
「そんなものですか?」
「愚痴っぽくなっちゃいました。今日はパーティを楽しんでいってください」
 美鈴さんは笑顔で手を振ると、また来客した人の元へ颯爽と歩いていった。
 辺りを見渡すと、いつもの幻想郷の面々が勢揃いしている。
 プリズムリバー三姉妹は、小高い舞台の上でソナタを奏でている。
 あの紳士然とした姿は、リグル・ナイトバグだろう。彼女もずいぶんと成長したものだ。ワインを一杯引っ掛けた風見幽香にまた怒られていた。
 群衆から少し離れた所でチェス盤を囲んでいるのは、パチュリー・ノーレッジとアリス・マーガトロイドだ。パチュリーは書物から顔を上げず、自分の順番になると指先だけで魔法を使い、チェスを動かしている。物ありげに霧雨魔理沙がチェス盤を覗き込んでいる。彼女は捨虫の法を覚え、魔法使いになったのだという。三人の熱狂の仕方は、大方、マジックアイテムでも賭けているのだろう。
 群衆がざわめき立つ。どうやらパーティの主役の登場のようだ。スカーレット姉妹が洋館中央の吹き抜けの階段を静かに降りてくる。
 レミリアは、胸元が大きく開いた派手な真紅のドレスに、頭にはこれまた赤いシルクのカチューシャを身に着けている。
 フランドールはレミリアに手を引かれ、後ろからしずしずと付き添う。レミリアほど攻撃的な衣装ではないが、フリルが数多く使われた赤色のドレスを身にまとっている。
 紅魔館の女主人は軽やかに腰を折り、一同に挨拶の台詞を語る。
「ごきげんよう。本日は、我が一族のフランドール・スカーレットの記念すべき日にご来場頂き、誠に有難うございます。ささやかながら祝宴の席を設けさせましたので、ご歓談ください」
 一同より拍手が巻き起こる。レミリアはスカートをついと持ち上げ腰を屈めた。会場には和やかな空気が広がる。
 一応、挨拶と共に魅月の代理であることをレミリアに告げないといけないだろう。場が歓談の空気になったので、私はレミリアに歩み寄った。
「やあ、レミリア。フランも誕生日おめでとう」
「あら橙。来てたのね」
「どうも、わざわざ有難うございます」
 レミリアは相好を崩す。フランドールは固い微笑みを作る。思えばこの姉妹もずいぶんと丸くなったものだ。フランドールは一時期、神経質で地下室に閉じ込められていたものが、気質が丸くなった途端、引込み思案な性格になってしまい、レミリアに連れてもらわないと屋敷の外の住人には馴染まない様になってしまった。レミリアも色々と手を尽くしているようだが、なかなか治らないようだ。
「今日は博麗神社の代理も兼ねていてね。魅月からもおめでとうということを伝えて欲しいとの事だよ」
「あら、それはどういたしまして。あのちびっ子巫女は元気にやっているのかしら?」
 これは意外だ。あの高慢だったレミリアが人間に気遣いできる様になっている。
「元気にやってるよ。最近は元気すぎてね。御すのに苦労してるぐらいだよ」
「それは十全ね。なかなか好みのタイプの体つきをしてるから気になっていたのよ」
 レミリアの顔つきが一気に卑下たものになる。下品な目付きで舌なめずりをする。
「ほら、最近、私達も適齢期じゃない? 人間の下僕が欲しくなってきたのよ。あんな風にお尻をふりふり歩いていたら、はっきり言って性欲を持て余すのよ!」
 …………。前言撤回。コイツを魅月に会わせるのだけは絶対に駄目だ。
「お姉さま! そんなはしたない事は言わないでください!」
「あらフラン。貴女、妬いているのね。貴女だって昨日の夜はあんなにいい声で鳴いていたじゃない。熱いベーゼが欲しいのかしら?」
「あっ……、お姉さま、こんな人前でっ……!」
 レミリアはフランの胸元を激しく揉みしだき、二人は熱い吐息で口付けを交わす。
 駄目だ、この変態吸血鬼姉妹。魅月を連れてこなくてつくづく正解だった。

 

 挨拶もそこそこに紅魔館を後にする。
 結局、スカーレット姉妹はあのまま絡み合い、まともに話に応じ合う事は無かった。天狗のブン屋がカシャカシャとカメラを撮り出したので、そのまま放置してやった。
 私は、人の里の目抜き通りを歩き、八雲家へ帰路に着く。すると道の向こうから人間の友人が歩いてくるのが見えた。
「散歩ですか? 阿正」
「ん? 橙かね。気晴らしで外の空気でも吸いたいと思ってね」
 彼女は稗田阿正。人間の立場で妖怪の記録を記している稗田家の現当主だ。紫色の和服の合わせを着て、学究者特有の落ち着いた雰囲気を保っている。濡れたような黒髪を掻き上げると、憂いを秘めた瞳をこちらに向ける。
「君は、どうしてこんな所を歩いているのかな?」
「丁度、紅魔館のパーティの帰りです」
「成程、あの吸血鬼姉妹の誕生パーティか。それは興味深い。是非ともその内容を聞かせてもらいたいものだね」
 阿正は、期待に満ちた目で見つめてくる。正直勘弁してほしい、あの姉妹の記憶は早く忘却の彼方へと押しやりたい所だ。
 阿正の好奇心に押し切られる形で、渋々、紅魔館であった出来事を語る。
「成程ね。丁度、今頃の歳が吸血鬼の発情期なのだろう」
「里の人間も警戒すべきでしょう。特に幼い子供はレミリアの前には出さない様にするべきですね。拐かされたりしたら知れ切った往生をするだけです」
「ふむ。里の人間たちには私から話しておこう」
 阿正は、服の合わせから手帳と筆を取り出すと、さらさらと記帳する。まぁ義務は果たした。それはともかくと、阿正は続ける。
「ここで君と出会ったのは好都合だった。博麗神社と君に招集が掛かっていてね、また、はぐれ物の妖怪が人間を襲っているんだ」
「またですか。会ったのが私で良かった。魅月はまだ使い物にならないですから」
「そうですか……。ですが……」
 阿正はそこまで言うと、眉根に皺を寄せて黙り込んだ。話しづらそうに口を開く。
「……襲ってくる妖怪は化け狐です。首領は白面金毛九尾の狐」
 まさかそれは……。嘘だ。誰よりも優しかった彼女が人間を襲うはずがない。彼女は誰よりも幻想郷の調和を求めて奔走した妖怪のはずだ。
「つまり、倒すべき相手は八雲紫の元式神。八雲藍です」
「…………嘘だ!」
 私は、親の敵の様に阿正を睨みつける。阿正はそんな私を憐れむが如き目で見つめた。
「……君が、八雲藍を母親の様に思い慕っているのはよく知っている。しかし、人間達の中には、その姿を見たものが居るのだよ」
「なぜ……藍様が……」
「理由は分からない。しかし、相手は傾国の天狐・九尾の狐だ。このまま放置する訳にもいかない」
「…………」
 袖口から手巾を取り出した阿正は、私に手渡す。ふと目元に手をやると、雫がぽろぽろと溢れている。
「君の気持ちは分からなくもない。だが、私は人の里を守らなければならない。それには君の協力が必要だ」
 阿正は踵を返すと今来た道を帰る。
「いずれにせよ、君と博麗の巫女には、里の集会へ来てもらう事になるだろう。君は優し過ぎる。私にはそれが命取りにならないか心配だよ」
 阿正は、振り返らずに歩いていった。私は、阿正から受け取った手巾が湿っぽくなったにも関わらず、泣き濡れてその場を動けずにいた。
 ……藍様。生き別れた藍様は、何時の日か八雲家に帰ってきてくれて、成長した私を褒めてくれるのではないかと思っていました。そのために、私は幻想郷の調和を守るために一人、走り回っていました。藍様。何故、こんな形で再会しなければいけなかったのですか?

 

 私と魅月は、人間達が化け狐の対策を立てる為の集いに招かれた。
 里の集会所は板敷の古い小屋で、光源は所々に置かれた蝋燭のみで薄暗い。戸が開放されていないためか、蒸し暑く、集まっている人々も手ぬぐいで汗を拭っている。
 人々は車座になって座っている。私と魅月は、人々が座っている板間から一段高くなった座敷へ並んで座していた。
 里の人間達は、苛立ちと焦燥を隠せないでいる。仕方のない事だろう。話を聞く限りではもう三人の人間が妖狐に拐われて姿を消しているという。
「……だから! 鉄砲を揃えて化け狐の巣を襲うべきなのだ!」
「それだけの犠牲をどうするつもりだ! 化け狐には鉄砲も通用しないかもしれないのだぞ!」
 私は、上の空で人間達の話を聞いていた。ここ数日、思うことは藍様の事ばかりだった。
 集会の人間達は加熱している。青年の一人が立ち上がり、叫ぶ。
「博麗の巫女はどうした! こんな時の為にお前は居るのだろうが!」
 急に名指しで弾劾されたため魅月は狼狽えた。
「わ……私は、里に争いが無いように努力しました。天香香背男命《あめのかがせお》を封じる儀式もちゃんとしましたし、今年の凶兆はないはずです」
「ふざけるな! お前はこの事態をどうするんだ! お前は里に住んでいないから、そうやって日和見で見てられるんだ!」
 魅月を責める青年に、協調する者も出てきてきた。つい苛立ちが前に出てしまう。こんな十歳の女の子一人を、大の大人が数人がかりで責めるなど、あっていいはずがない。
「いい加減にしろ。お前たち人間の側に、一番、寄り添っているのはこの子だ! 里を守ってもらう代わりに、神社を支えると約束したのはお前たちのはずだ」
 半ば、喧嘩腰で立ち上がっていた青年は、「化け猫が」と捨て台詞を吐くと、集会所の外へ出ていった。残った人間たちにも白けた空気が流れる。
 魅月の表情を見ると、俯き加減で下唇を噛み締めている。今は慰めている暇などないだろう。
 座の中でも年嵩の男が立ち上がり、私に向き直り、朗々とした声で語りだす。
「ならば、橙様。この幼き博麗の巫女の代わりに、あの化け狐を討ってはいただけませぬでしょうか? 貴方様の力であれば、それは叶わぬ願いではないはず」
「……無論、私はそのつもりです」
 一同におお、との声が広がる。中には、立ち上がり拍手をする者もいる。
 反吐が出る。幼い魅月を人身御供に捧げ、自分達の力では何もできないくせに、保身に長けた人間共。藍様もこんな事があったのだろうか?
 座談は、酒が入った宴会に早変わりした。人間達が酒を注ぎに次々とやって来る。私は気が休まる事もなく、座が空けるのを待つだけだった。

 

 気がつけば、いつの間にか足が博麗神社に向かっていた。昨日の集会で傷心した魅月をそのままにする訳にはいかない。
 鬱々と山の傾斜に作られた階段を歩く。私自身、藍様の事が一時も頭から離れず、煉獄に囚われた様な沈鬱な時間を過ごしている。ここを訪れたのはその気分を払いのけたい為でもあった。魅月の顔を見たら、少しは気も晴れるだろう。
 長い階段を登り終えた。博麗神社の境内を見ると、魅月は一人で縁側に腰掛けている。
 その少女の目元は、泣き明かしたのか赤く腫れている。やはり、そのまま帰したのは失敗だったか。
「やあ、魅月」
「…………橙さま!」
 魅月は駆け出すと、私の胸に飛び込んできた。そのまま腕の中で、えぐえぐと泣きだした。私は、魅月を抱きしめて、優しく肩を叩いて上げる。
「わたしは……神事もちゃんと出来ないし……――妖怪退治も出来ないし…………」
「はいはい、分かってるよ、辛かったな魅月。お前が頑張っているのは、私がよく知っている」
 普段、ちゃんとしているように見えて、こんな所は普通の女の子だ。無理を強いる、里の人間たちが悪いのだ。
「里の……化け狐退治も、――……橙さまに押し付ける形になってしまって……」
「……仕方のない事だよ」
 あの場を切り抜ける為にはそう言うしかなかったし、里の人間の為に妖怪と戦うのは私ぐらいしか居ない。
「そもそも、ちゃんと魅月が大きくなるまでは私が守る役割だ」
「でも、いつまでも橙さまに守られている訳にはいきません」
「私の事はいいんだよ。いつか魅月が返してくれればいい」
 魅月は、涙を一杯に溜めた目で、私の目を直視して言う。
「約束します! いつか立派な巫女になって、橙さまに恩返しをします!」
「…………そうか。いつの日かそうなると、私も嬉しいよ」
 涙でぐしゃぐしゃになったまま笑みを作る魅月を見つめて、私の幼い頃と重ねていた。今の私には、こんな純粋な笑顔は作れない。
 里の化け狐は、満月の夜に姿を現すという。月はもう小望月《こもちつき》まで満ちている。明日は満月だ。
 私は、大人になった今、藍様に会って、何と言えばいいのだろう?

 

 満月の晩、丑の刻頃、私は、魅月と共に里の入り口に当たる場所にある小屋の中に居た。
 夕刻から降り続いていた雨は、子の刻には止み、天を強い風が吹き、雲を吹き散らしてくれたお陰で、光風霽月な夜になっている。
 周りの空き小屋の中にも、鉄砲を持った里の若者たちが詰めている。
 化け狐は未だ現れない。辺りは月夜が照らす銀色の世界。伝令を務める若者の潜め声しか聞こえない。
「橙さま。化け狐はまだ現れないのでしょうか?」
「魅月、あなたまで待ち伏せしている必要は無い。眠たければ寝てしまいなさい」
 魅月をこの場に連れてくる事は、反対だった。しかし、博麗の巫女として役割を果たすとの、魅月の強硬な意見を渋々と飲んだ。いつか、巫女の役割を果たすのならば、こういった経験もしておく必要はあるだろう。
 息を潜めてしばらくすると、動きがあった。
「狐火が近づいてきます!」
 伝令の若者が示す方向を見ると、青白い炎がちろちろと漂いながら近づいてくる。
 来たか。来る時は呆気無いものだな。そんな事を思いながら、小屋の戸を開け放ち、外に飛び出す。
 通りの向こうに二三の狐火が揺らめいている。白銀の明るい夜道に、人影が現れて、次々と数が増えていく。背中に里の若者たちの騒ぎ声を聞きながら、現れた人影を睨んでいた。
 現れた一行は、金色の髪の毛を月光で照り返しながら、狐の尻尾を生やした、人形で有りながら人間では無い、化け狐の一団だった。男の化け狐は、里の人間を見て笑い出す。
「わざわざ山を降りてきたぞ人間ども。酒と肴でも用意してくれたのか?」
 周りの化け狐も同調して笑う。里の若者の一人が、前に進み出て叫ぶ。
「てめえらに飲ませる酒なんぞあるか! 鉄砲玉でも喰らえ!!」
 若者の掛け声で、何十丁もの火打銃が轟音と共に鉛玉を吐き出す。
 濛々とした硝煙の煙が、風で吹き流されていくと、そこには化け狐の一団が変わらずに立ち尽くしていた。若者たちは焦れた様に大声で話し合う。
「鉄砲じゃ効かない!」
「構うか! 刀で斬りつけろ!」
 若者たちは各々、刀やナタなどを抜き放つと、化け狐に切り込もうとする。
 ここ辺りが潮時だろう。人間と妖怪では地力の差で敵うはずが無い。無駄な犠牲は出せない。大声で里の若者たちに話しかける。
「待て、里の集! ここは私が敵の首領と決着を着ける! 少し下がっては貰えないか?」
 若者たちは、お互い頷き合い、道を開く。私はできた道を踏み締めながら前に進んだ。念の為に、普段より大きく爪を尖らして。
「聞け、化け狐ども! 私は里の代表の八雲橙だ! 決着を着ける! 首領を出せ!」
 化け狐達がざわめき立つ。あちらでも伝令なのか、一匹が後部へ走っていく。しばらくすると、化け狐の一団が割れて、間から一匹の妖狐が姿を現す。
 私は思わず歯噛みする。やはりそうなのか。今まで漠然としていた不安が現実となった。
 現れたのは美しき天狐。藍染めの衣に身を包んだ、白面金毛九尾の狐。他ならぬ八雲藍だった。
 全てを詳らかにする月光の下で、私と藍様は対峙する。
 先に口を開いたのは藍様だった。
「……橙か? 何故、里の人間などに肩入れする?」
 不自然に息が荒くなる。威嚇する様な声が喉から溢れでてくる。
「藍様。私は、幻想郷の調和を守るために紫様と藍様の後を継ぎました。どうか狐たちを引いて下さい。私はまだ、貴女を殺したくはありません」
 藍様は少し身を引くと、困ったような表情をする。
「そう、あなたはあれから300年も経ったのに式神としての命を守り続けているのね。聞いて橙。本来、妖怪は自然と寄り添い、ねぐらにする者たち。自然を荒らす人間とは相容れないもの。あなたも妖怪だからわかるでしょう?」
「…………」
「一緒に来ないか? 橙? 私は今、妖怪の山の麓に住んでいるわ。楽園のような暮らしには程遠いかもしれないけど、仲間たちに囲まれて楽しくやっている。きっとあなたの事も受け入れてくれるわ」
 私は、藍様の言葉を聞いて、懊悩に囚われる。また藍様と昔のように生活できるかもしれない。それは掛け値のない提案に思えた。
後ろに居た里の若者たちの間で騒ぎ声が広がる。振り返ると、魅月が飛び出してこようとしているが若者たちに肩を掴まれている。
「魅月!」
「行かないで下さい橙さま! 橙さまが居なくなってしまったら私はどうすればよいのですか!」
 力強く抑え込まれているのにもかかわらず、魅月はいまだこちらに飛び出そうとしている。そうだ、私にはもう魅月という存在がいる。かつての様に勝手気ままに暮らし向きを変えることなどできない。
「藍様、私は人間達を見捨てる訳にはいかないのです。私がいなくなるだけで悲しむ者がいる」
 藍様は、魅月と私の顔を見比べると、情けないように溜息を付いた。
「…………はぁ。なんでアンタは私とそんなとこばかり似ちゃったのよ。しかたないわね、力づくで拐っていくわよ!」
 辺りの空気が一変する。藍様の周りで狐火が回りだす。私は突進できるように足場を踏み均す。
 刹那、狐火が飛び込んできて足元で炸裂する。私は既に踏み出しており、背後から爆風を受ける形で突き進む。
 爪を尖らせた右手を突き出して、藍様の元へ疾走する。藍様は手をかざし狐火を操るが、遅い! 飛んでくる狐火を左右に躱し、藍様の脇を走り抜け、背後で土煙を立てて停止する。
「……浅いか」
 藍様の右肩の部分が裂けており、そこから血がにじむ地肌が覗いている。振り返りざま藍様は宙に飛び上がる。私も後を追い飛び立つ。
 夜空で私達二人は並走する。私を見て、藍様は目をきらきらと輝かせる。
「凄いな橙。そこまで疾さを極めたか! だけど弾幕はどうかな?」
「甘くみないで下さい。伊達に今まで幾度と無く戦いを経験している訳ではありませんから。子供の頃と一緒にしないでください」
「私にとってアンタは、いつまでも寝小便して泣いてた子猫ちゃんだよ!」
 そこで一旦、私と藍様は距離を置いて離れる。
 藍様が手を一薙すると、青白い狐火の群れが私に向かって殺到してくる。私は回転しながら狐火の群れをやり過ごす。スペルカードを一枚取り出して、宣言して放つ。
「凶兆『壁に塗りこまれた黒猫』っ!」
 真っ赤な閃光が藍様を囲い込む様にして放たれる。
「はっ! 甘々ね!」
 藍様はジグザグ機動で閃光を躱す。いまだ! 両手を向けて巨大な光弾を放つ。光弾が炸裂すると大音響と共に衝撃波が伝わってくる。
 やったか? 爆風が収まると、私は目を凝らして爆心地を見つめる。
「創意工夫は認めるけど、スペルカードの出来としてはイマイチだわ」
 気がつくと背後に居た藍様は、私の耳元で囁く程の距離にいた。
「さぁ、捕まえた!」
「くっ……! 何をするつもりだ!」
「私も、引っかき傷作られて頭にきてるから、お仕置きさせてもらうわよ!」
 藍様がそう言うと、天と地が逆転した。猛烈な勢いで地上が近づいてくる。藍様に抱えられたまま、私は地面が砕ける勢いで叩きつけられた。
「かっ……はっ……!」
 肺の空気が全部絞り出される。夜空の月が何個にもばらけて見える。立ち上がらないといけない。だけど手足に力が入らない。
 そんな私の姿を見て、藍様はにっこりと微笑んだ。
「さぁ、一緒に来てもらうよ。橙?」
「…………」
 藍様は肩を貸す形で、私を立ち上がらせようとする。ぼやける視界の中で、一人の少女が駆け寄るのが見えた。
「橙さま!」
 魅月。駄目だ、近寄っちゃいけない。色素の薄い世界の中で、魅月の泣き顔だけがはっきりと見える。
 魅月はその小さな身体で、私を藍様から引き離す為に引っ張る。藍様はそれを意外そうに見つめた。
「あなた……その衣装は博麗神社の物。そうか、あなたが現在の博麗の巫女なのね」
「橙さまを離せ、化け狐! 橙さまを拐わせはしない!」
 藍様は、魅月の頭に手を伸ばす。あまりの事態に私は飛び出しそうになったが、落下の衝撃で体が自由に動けなかった。
 すると、藍様は魅月の頭を撫でた。目線を同じ高さにして魅月に話しかける。
「いやー、魅月ちゃんか、可愛いなぁ。橙が骨抜きになるのも分かるわー。橙も昔はこんな時期があったんだけどなー、今はこんな唐変木になっちゃって」
 きょとんとしている魅月をよそに、藍様は話し続ける。
「しかし、歳取るのは面倒だと思ってたけど、意外な事にも出会うもんだね。立派になった橙には会うし、ついでに孫みたいな子も出てくるし。今日は満足だよ。帰る」
 私を座らせると、藍様は狐達がいる方向へ歩き出す。そのまま行ってしまうかと思うと、思い出したように振り返る。
「あー、そうそう、ちょいちょい遊びに行くから用意しておいてよ、橙! 魅月ちゃん泣かせたら許さないからね!」
 言いたい事だけ言い終わると、藍様はそのまま狐たちを引き連れて暗闇の中へ歩み去ってしまった。
 後に残された私たちは、拍子抜けして座り込んでいた。
「行っちゃいましたね、橙さま」
 魅月や里の者たちに傷ひとつないのは良かったが、予想以上に私の身体の損傷が酷そうだ。全身の軋む痛みに耐えかねて、呻き声を上げる。
「橙さま! 大丈夫ですか!?」
 無理せずここは休んで置くべきだろう、横たわると一面の星空と満月が見えた。こうしていると、宇宙と私が繋がっている様に感じる。魅月は心配そうに顔を覗き込む。
「……情けないなぁ。守るはずの魅月に守られちゃうし、藍様には情けをかけられてしまった」
「そんなっ! 橙さまが居ないと化け狐はどうしようもありませんでした。橙さまは良くやりました!」
 魅月は無邪気な笑顔で微笑んでくれる。今はそれだけ守れた事でも、良かった。
 いずれまた、藍様とは出会うことになるだろう。その時、もっと笑って、家族のように話し合えれば良いのだけど。

 

 身体が癒えてしばらくした日のこと、博麗神社を訪れるため人の里を歩いていると、稗田阿正と出会った。
「やあ橙。身体の調子はもう大丈夫なのかね?」
「まずまずと言った所だよ。打たれ強いのも取り柄だからね」
「この度はありがとう。あれから化け狐が人の里を襲うことは無くなったそうだよ。里の人間を代表してお礼をいうよ」
「いや、お礼を受けるのは私ではなく魅月だ。彼女が居なければ藍様を退ける事は出来なかった」
「ほう、そうなのかね?」
 阿正は顎に手をやると、不思議そうに首を傾げる。私はそんな阿正の様子に微笑みを返した。
「まぁ、その内、博麗神社にも里の者がお礼に行くはずさ。今回は随分と失礼な事もしたようだが、魅月もみんなに認められる様になるだろう」
「そうですね。そうなるのが一番です」
「ふふっ、君は本当に魅月には甘い。それでは失礼するよ」
 阿正は、一礼すると去っていった。
 私は阿正と別れると、一路、博麗神社を目指す。

 

 博麗神社の境内まで登ると、魅月が縁側に腰掛けているのが見える。足をぶらぶらとさせて、退屈を持て余しているようだ。
「あっ、橙さまだ」
「久し振りだね魅月。何か変わった事は無かったかい?」
「それが……」
 魅月は、困ったような顔で社務所の中を指さす。そこには枇杷が山積みになっていた。
「山の化け狐……いえ藍さまが、お土産で持ってきた物です。また、遊びに来るそうです」
「藍様が来ていたのか!? それで魅月は何と答えたんだ?」
「その……博麗神社は人間や妖怪だろうと何時でも開かれた神社だと……」
 思わず私は眉間を押さえた。いくらなんでも危機感が無さ過ぎる。まぁ、それが魅月の良い所だ。
「……まぁ、済んだことは仕方ない。しかし、知らない妖怪には注意するんだぞ。危ない連中はいくらでも居るんだからな」
「はい。でも、藍さまは危険な人には思えないのですが?」
 そうか、魅月は私と藍様の関係を知らないのか。説明する暇など無かったし。
「藍様は、私が式神だった頃の元主人だよ。家族も同然の人だ。私がいる限り魅月に危害を加えることは無いだろう」
「そんな……、恩人の方と喧嘩してたんですか? 悲しすぎます」
「今回はお互いの立場が対立しただけさ、いずれ謝りに行くよ」
 いつか、妖怪の山にいる藍様の元を訪れなければいけないだろう。話したい事は山ほどある。魅月の事も気に入ってくれたようだし、魅月を連れて藍様に会いに行ってもいいかもしれない。
 境内は木漏れ日が溢れて、風の色まで緑色に染まっている。思わず私は空を見上げ、木々から漏れてくる光に目を細める。
「あっ!」
 どうやら妖怪の山まで行く必要は無くなったようだ。藍色の衣に身を包んだ九尾の狐が空から降りてくるのが見える。
 私は、魅月と共に、空に向かい手を振った。

 

 

 博麗神社に、猫と狐の二柱の式神を使う巫女が現れるのは、それからしばらくしてからである。それ以降、人間と妖怪の争いは止み、幻想郷にはしばしの平穏が訪れた。

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ナナシノユウレイ

ナナシノユウレイ              椎野樹

 

頭蓋骨持ち歩き少女_背景

 

 県道わきの畦道を歩いていた玲《れい》は、誰かが呼ぶ声を聞いた。
 少々げんなりとした表情で声のする方向へ振り返る。声は往来からちょっとだけ離れた河原から聞こえて来るようだった。
 玲はため息をひとつ付くと、その声がする方に向かって歩き出す。
 河原には腰に届くほどの高さの野草が繁っている。7月に向かい気温の上昇とともに、河原の野草も勢いを増している。玲は誰にともなく呟いた。
「やだなぁ……ここを行くの?」
 玲は自分の身なりを確認する。中学校から帰宅途中で制服のままだ。素肌が露出したスカートでは尖った葉に触れるだけでかぶれてしまうだろう。背負っていたリュックを下ろし、中から学年指定の赤いジャージのズボンを取り出す。玲は制服のスカートの上からジャージを履いた。意を決して河原の藪の中へ踏み込んでゆく。
 生い茂った夏草をスニーカーで踏み潰しながら進む。一歩進むごとにむせ返るような青臭い匂いが熱気の様に玲を包む。
 玲は河原の中程で立ち止まった。遠くには街道の喧騒が聞こえるが、ここまで来るとどこか遠くの異世界の事の様だ。この世界では野鳥たちの睦み合う声が主役である。玲はそれにも耳を貸さず、不可知の声に意識を集中する。
「ここかな……」
 その『声』は地中から聞こえてくる。玲は辺りを見渡して何か道具になるものは無いか探した。幸い、すぐ近くの川辺に半分朽ちたブリキのバケツを見つけた。これなら土を掘る事ができそうだ。
 玲はそのバケツを取ると『声』がする地点を掘り返し始める。二度三度と土へと突き立てるうちに玲は後悔した。やはり土を掘るための道具ではないバケツでは、一度土をすくうだけでも相当な力がいる。渾身の力を込めて土にバケツを突き立てる。
 額を流れる汗が眼に入りそうになるのを拭う。腰の辺りに鈍い痛みが生じ始めている。
 玲がいい加減に諦めようとした時、それは現れた。初めそれは土に汚れた白い石の塊の様に見えた。
 玲はバケツを捨ててそれの周りの土を手で掻き分ける。引っかかりを感じたので指を掛けてひっばると、以外なほどあっさりとそれは穴から抜けた。
 土の中から出て来たそれは、髑髏。いわゆる頭蓋骨だった。大きさから察するに犬などの動物の物ではなく人間のそれだろう。玲の指は頭蓋骨の目に当たる空洞に引っかかっている。頭蓋骨を地面に置くと、付近に生えている雑草をむしり、こびりついた土を拭ってやる。玲は軽く手を合わせて一礼する。

 

 玲は土の中から拾い出した頭蓋骨を放置するわけにもいかず、持ち帰ることにした。さすがにそのままでは人目が気になるので、体育でつかったジャージの上着で頭蓋骨を包みこみ、しっかりと袖を結び、片手で持ち運べるようにした。
 帰るために河原のあぜ道を踏みしめ戻る玲を、県道の方から一人の女子高生が見つめていた。
 紺色のブレザーとプリーツスカートは近くにある高校の制服だろう。それにしてもいまどきの高校生にしてはルーズソックスは珍しい。艶やかな黒髪に、日の光を嫌うような白磁の肌。遠目ながらも端正な顔立ちであることが分かる。
 彼女は玲を見ると無邪気な笑みを浮かべて手を振った。玲は笑顔を向けられたのにかかわらず、刃物を首に当てたような寒気を感じる。全身がざわざわする凶悪な感覚を味わいつつ、玲は一つの決意を固めた。
 玲はスニーカーの裏にアスファルトの硬さを感じたと同時に、全力で駆け出した。
「え!? ちょっと……なんで逃げるのよ!」
 驚いた表情の彼女を取り残し、玲は前傾姿勢を崩さずに疾走する。虚を付かれた彼女もあわてて走りだす。
「まってよ! それ私のじゃない! どうするつもりなのよ!?」
 玲は後ろからあたふたと追いかけてくる頭蓋骨の主? とおぼしき女子高生には構わず走り続ける。玲は体力には自信がある。それに追いかけて来る女子高生は、見るからに文化系だ。所詮、陸上部で無駄に走らされ続けている玲の敵ではない。
 玲のはるか後方で、ずでんと女子高生がつまずいた音がした。案の定、玲が振り返ると道路に這いつくばって、泣き伏せている。その背中には懐いたところをいきなり蹴り飛ばされた野良犬のような哀愁があった。
 さすがに可哀想になってきた玲は、いまきた道を戻り、声を掛けてやることにした。
「大丈夫ですか?」
 自分より年上の女性が道端に倒れている姿は、痛ましくあるととともに無様でもある。 彼女はいまだに声を殺して、肩を震わせている。涙をためた瞳で玲を見つめあげると口を開いた。
「…………大丈夫なわけないじゃない! そっちから呼び出してきて、なんでいきなり逃げるのよ!」
「知らない霊《ひと》にはついて行っちゃダメだと、おばあちゃんから言われています」
「ずいぶんと立派な教育を受けているのね。おかげでびっくりしすぎて死ぬかと思ったわ!」
「いいえ、安心してください。もう二度と死ぬ事はありませんから」
「分かってるわよ!」
 彼女は怒ったように立ち上がると、服についた土埃を叩き落した。そして値踏みするような目付きで玲を見つめた。やがて諦めたようにため息をつく。
「思い出してみると、こうやって人と話をするのも久しぶりだわ。どうやら、あなたにはお礼をしなければいけないみたいね」
 玲は表情を変えず、訥々と受け答える。
「気にしないでください。死してなお、現世《うつしよ》に留まり続ける魂を導くのが、わたしたちの役目です」ほんのわずかに頬を染めるとこう付け加えた。「わたしはまだ修行中の身ですが……」
「あなた、名前は?」
「わたしの名前は、根神《ねがみ》玲といいます」
「そう、玲ちゃんね。私は……――」
 彼女はそこで口を丸く開いたまま、呆然としていた。
「あれ……? 私の名前は?」
 うろたえ、色を失った彼女に、玲は色を交えずに答える。
「死者の身体が土へ還るように、死者の魂は常世《とこよ》の国へ帰るが定め。全てが一つの常世の国で名は不要」
「……つまりは私の名前は無くなっちゃった訳?」
「そういうことになります」
「ふざけないでよ!」
 玲が顔を見上げると、怒っているとも泣いているとも取れない表情のまま、彼女は喉から声を搾り出した。
「……なんでこんなところで十年も縛り付けられて、真っ暗のなかでずっと一人ぼっちで……、苦しいのに、誰も話を聞いてくれないのに……――、なんで……、なんで私だけがこんな目にあわないといけないのよ!」
 激しい口調で、叩きつけるように叫ぶ姿を、玲は透き通った視線で見つめる。
「不本意かもしれませんが、この世の理《ことわり》に従う限りあなたがあなたでいられる時間はそう長くないのです。わたしが見つけた以上、わたしがあなたを導かなくてはいけません」
「……どうするつもりなのよ」
「これを――」
 玲は右手に握るジャージの包みを掲げた。それは不自然な膨らみでもって頭蓋骨を包み込んでいる。
「おばあちゃんのところに持っていくつもりでした。おばあちゃんならあなたを苦しめる事なく常世の国へ送ることができますから」
「え……」
「おばあちゃんに言われました。玲はまだ未熟だから、霊を見つけても一人でお送りする事は無理だって。だから、苦しんでいる人を見つけたら、おばあちゃんのところに連れてくるように言われています」
「ちょっと、待ってくれないかな?」
 玲は再び彼女の顔を見上げた。悲しみにくれた様子だった彼女は、少し戸惑いの表情を浮かべていた。
「ちょっとね、玲ちゃんにお願いがあるの」
「なんでしょうか?」
「あのね……、私がここに縛り付けられてから何年も経つんだけど、その間、お父さんとお母さんにずっと、ずっと謝りたいと思っていたの。だから、ちょっと連れて行ってもらえないかな?」
 玲はひそかに眉をひそめ、気怠く口を開く。
「あなたは、家族に会えれば満足してくれるのですか?」
 いままで暗澹としていた彼女の顔が一度に晴れやかになる。
「……いいの?」
「しかたがないです。この世に未練を残して悪霊になってしまっても困りますから」
 彼女はふらりと倒れこむように近寄ると、その胸に玲の顔を抱擁した。
「ありがとう」

 

 放課後を幾分と回った駅のホームには人影がなかった。老朽化が進んだ木造の無人駅ではあるが、これでも通学時間には生徒達のはしゃぐ声で喧騒にあふれている。あとしばらく時間が経てば部活動を終えた生徒達が帰宅のために集まってくるだろう。いまはまだ周りの世界から取り残されたように静まりかえっている。
 玲は沈黙が支配する駅のホームにただ一人、佇んでいた。白いプラスチックのベンチを見つけると、そこに腰掛ける。隣の席に赤いジャージで包んだ頭蓋骨を置いた。不満げに独り言を言う。
「人がいなくてよかったです」
「え、なんで?」
 玲は剣呑な眼差しでもって頭蓋骨の主である彼女を見た。
「ぶつぶつと独り言を言っている危ない人と思われるのは嫌です」
「あはっ、そういえばそうね」
 彼女からは屈託のない天真爛漫な笑みがこぼれた。玲は不服そうにその笑顔を見つめて、それに、と言葉を継いだ。
「あなたのように強い想念を残したままの霊は、感じやすい人にとっては多大な悪影響を及ぼしてしまうのです」
 今まで明るく笑っていた彼女は玲の一言で黙り込んでしまった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。別にあなたが悪いわけではありません」
 玲は彼女から目を逸らすと、遠い丘陵の先を見つめた。線路の向こうからローカル線がこちらに向かってくるのが見える。

 

 玲が車内に入ると、冷房のひんやりとした空気が汗ばんだ肌を心地よく冷ましてくれた。車内にはまばらに人が座っている。玲はそのうちで空いている窓際の席を見つけて腰掛けた。窓からは暖かな陽光が差し込んでおり、玲は少し目を細める。
 隣の座席には彼女が居住いを正して、なんとなく居心地悪そうに座っていた。
 ブザーが鳴り響くと、がたんと強い振動とともに車窓の風景が動きだす。
 玲は車窓の外の景色を眺めており、終始無言である。隣の席で彼女はじっとしていたが、耐えかねたのか周りの様子をうかがうと、小声でそっと玲に話しかけた。
「……玲ちゃん。玲ちゃんはいつもこんな感じで人助けをしているの?」
 玲は窓辺に肘を置いて風景を眺めていたが、姿勢を変えず小さくうなずいた。
「へぇ。私より若いのにすごいね。おばあちゃんのところに私を連れて行くって話していたけど、おばあちゃんも霊能者なの?」
「……うん」
「すごいね。やっぱり、お母さんもおんなじ感じの仕事?」
 玲はすこしの間沈黙すると、窓辺から腕を下ろして前をじっと見つめた。しばらく考えた後、小声で話し始める。
「お母さんはいません。わたしを生んだ後、すぐに死んでしまいました。お父さんもわたしが小学生の頃に、わたしを怖がって家を出て行ってしまいました」
「え……」
「わたしがいる場所には、さまざまな怨念が訪れて災いを招くのです。飼っていた猫や小鳥はすぐに狂って死んでいきました。友達だった従兄弟の子は悪霊に取り付かれて、何日も熱に苦しめられた後、うなされて道路に飛び出したところを交通事故で亡くなりました。お父さんは言っていました、わたしは鬼子だって」
「…………」
「お父さんがいなくなった後、有名な霊媒師だったおばあちゃんがわたしを引き取って育ててくれました。おばあちゃんはわたしにいろんな事を教えてくれます。おばあちゃんは言っていました。玲は神さまに選ばれてしまったんだって。人よりも強すぎる力を与えられてしまったんだって」
「玲ちゃん……」
 玲の瞳から一粒、雫がこぼれてスカートに落ちた。流れ落ちる涙を玲はそのままにした。
「わたしは多くの人を救わなければならない。それがわたしの使命だから。だって、わたしは神さまに選ばれてしまったのだから」
「玲ちゃん!」
 気がつくと彼女は玲の手を握り締め、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。まぶたをごしごしとこすり、息をつめると盛大に鼻を啜り上げる。
 玲はその様子を見て、少し引く。
 彼女は嗚咽で途切れがちになりながらも言葉を絞り出す。
「辛い話をさせてごめんね……、私は、私ひとりがずっと苦しいんだと思っていた……。玲ちゃんがそんなに辛い目にあっているなんて知らなかった。そうだよね、そんな歳で私よりいろんなことを知ってるんだもんね。うん、歳不相応にしっかりしてるとは思ってたんだ」
「……」
「そうだ、私が――」
 次の一言を聞いて玲は、こんな霊、連れてこなきゃよかったと激しく後悔した。
「――私が玲ちゃんのお姉さんになってあげる!」

 

「玲ちゃん! なんでそんな早足なの!? 追いつけないよ!」
「ついてこないでください」
 となり街のターミナル駅に着いた二人は、彼女が生前住んでいたという住宅街を目指すことにした。この駅の地下は近辺の町では一番の繁華街で、玲も何度か訪れている。地下街の目抜き通りを、玲はランニングに匹敵する速度でずんずんと進んでいく。
「玲ちゃん! 玲ちゃん!」
「……なんですか?」
 玲が面倒そうに振り返ると、彼女はカジュアル服のウインドウに張り付いていた。玲を満面の笑みで見つめると、手をぱたぱたと振って招き寄せる。
「このボーダーとショートパンツ、玲ちゃんに似合いそう……。玲ちゃんはスレンダーだし、手足も長いからこんな感じの組み合わせがいいかなぁ?」
 玲はあきれ顔で彼女を見ていたが、黙殺して先を急ぐことにした。
 あわてて駆け寄ってきた彼女は、不満そうにぶつぶつと言っていたが、しばらくするとまた嬌声を上げた。
「玲ちゃん! ちょっとこれみてよ!」
 玲が黙って後ろを振り向くと、彼女は和菓子屋のまえで目をきらきらと輝かせながら店先の張り紙を指さす。
「ここの善哉、すごくおいしいのよ! 一日限定三〇杯なんだよ? 今なら間に合う! 入ってこうよ」
 玲はこめかみが引きつるのを感じた。
「……………………頭蓋骨ごとここに置いていきますよ?」
 彼女はわかったわよと頬を膨らませると、しぶしぶ店先を離れる。
 その後も彼女は、ゲームセンターやファンシーショップを見つけるたびに、玲を呼び止め辟易させた。
 二人が住宅街に着いたのは、玲が十二分に疲弊したのちであった。

 

 

 玲が、彼女が生前住んでいたという住宅街に来るのは初めてだった。住み慣れた町から遠く離れたその場所は、同じような住宅がいくつも立ち並び、のっぺりとした印象を受ける。夕闇が近付いてきたせいもあり、抽象絵画が描き出す赤黒い不安のような風景が開けていた。
 黄昏時の住宅街は生活音があふれている。近くの家からはテレビの音が洩れ聞こえた。またどこか遠くの家では母親が子供を呼ぶ声が聞こえる。それぞれの家には明りが灯り、そこには自分たちとは異なる世界に生きている人々の営みを主張していた。
 ふと玲が隣に立つ彼女の表情を伺うと、先ほどまでとは異なり、緊張した面持ちである。自分の顔を見つめている玲に気がつくと、無言で気弱そうに笑った。
 玲はそんな彼女の様子を見て、しばらく考え込んだのち、彼女の手を取り、握りしめた。
 やはり霊体である彼女の手を握ってもなんの質量も感じなかったが、それでも彼女はやわらかく玲の手を握り返してきたように思う。
 そうして二人は手をつなぎ、住宅街を歩いた。

 

 何もいわず二人で路地を歩いていたが、彼女は思案顔で玲に話しかけた。
「そういえばさ……、家にたどり着いたとしても、どうやってお父さんやお母さんと話せばいいのかな? うちの家族は霊感なんてないよ?」
 彼女はそういいながら自分の手を透かすようにして見つめる。
 玲は前方から視線を外さずに答えた。
「その点は問題ないと思います。あなたほど生前のイメージがはっきりした霊であれば、相手が意識を集中してくれれば、意思の疎通は行えるはずです」
「ふうん、そんなことができるんだ……」
「あなたの両親にはまずわたしがコンタクトを取り、あなたに意識を集中してもらいます。そうすればあなたのメッセージは伝わると思います」
「そっか、玲ちゃんには面倒かけちゃうかもしれないな」
 彼女は不安げな顔を作る。
「うちのお母さん、すぐに泣いちゃうからさ、話なんか聞いてくれないかも……」
 玲はそんな彼女の様子を横目にして、はっきりと断言した。
「不安に思う必要なんてないです。子のことを思わない親なんていません。あなたの両親もあなたの事を思い続けているはずですから、あなたの想う気持ちを伝えればいいのです」
 そっか、と彼女は情けないような笑顔を浮かべてうつむいた。玲も何も言わず、二人は歩き続けた。

 

 彼女は何も言わず角を右に折れる。
 玲はじっと足元をだけ見つめて、彼女の行く先を追う。

 

 彼女の足が止まった。
 玲は顔を上げ、目前の家を見据えた。

 

 その家は、周りの住宅とさして変わらず、住宅街に溶け込んでいる様に見えた。薄暗い闇の中、オレンジ色の暖かな灯りを灯している。白木の表札には「守屋」と記されていた。
 玲が再び彼女の表情を伺うと、不安の色はもうなかった。
「やっと……帰ってこれたんだ」
「行くんですか?」
 彼女は小さく頷く。
「……うん」
 つないでいた手を離し、玲がインターフォンのボタンを押そうとした時、一台の自転車が、住宅の前にブレーキ音を立てて止まった。

 

 その自転車にはまだ幼い、小学生低学年ほどと思しき少年が乗っていた。玲を見つめると小首を傾げる。
「あれ? お姉ちゃん、うちになんかよう?」
 少年は自転車を駐輪すると、ばたばたと玲の前を走りぬけ、扉のノブに手をかけた。
「おかあさーん、ただいま! お客さん!」
 玲は目前の光景を呆然と見ていた。振り返り、彼女を見つめると、彼女は首を横に振る。
「毅《つよし》! 靴下はちゃんと脱いで上がりなさいよ!」
 家の廊下の奥から、中年に差し掛かった女性が顔を覗かせ、玲の姿を認めて歩いてきた。毅と呼ばれた少年は玄関に腰掛けるともぞもぞと靴下を脱いでいる。
 女性は廊下を歩いてくると、門前で立ち尽くしている玲に話しかけた。
「こんばんわ、うちになにかご用ですか?」
「…………」
 玲は手のひらにじっとりと汗がにじんでくるのを感じる。
「……なんでしょうか?」
 女性は、何も話さない玲へ訝しそうな眼差しを向けた。
 玲は勇気を振り絞り話し始める。
「……実は、お宅のお嬢さんの事なんですが……」
「えっ!?」
 女性は驚愕の表情を浮かべ、目を見開く。
「――真輝《まき》の事を何かご存知なんですか!?」
「…………」
「お父さん! ちょっと来て!」
 女性は家の奥へばたばたと駆け戻る。少年はそんな母親の姿を、不思議そうに見つめていた。
 家の奥から声が漏れ聞こえた。
「……どうしたんだ、そんなにあわてて」
「真輝の事を知っているっていう女の子が……――」
 玲は足元を見つめていた。時間が妙に間延びしたように思える。足元がふわふわとして地を噛んでいない。
 そのとき、誰かが後ろから腕を引いた。
 あわてて後ろを振り返ると、彼女が玲の腕をつかんで、涙を目にいっぱいにためて首を振っていた。
 家の廊下をゆっくりと二人の男女が歩いて来るのが見える。
「本当か? 警察でもまだみつからないって」
「でも知っているっていってるんですよ!」
「……お父さん? お母さん?」
 少年は両親の様子が不審であることを察したらしく、神妙な表情になっている。
 また、彼女が玲の肩を引く。
「玲ちゃん……もうやめて! もういいから!!」
 彼女は大粒の涙を流しながら、大声で叫んでいた。
 玲は、一瞬でここに留まるべきではないと分かった。守屋家に背を向けて歩き始める。歩む足が徐々に速くなり小走りになる。
 後ろから声が聞こえる。
「……おい、あの子か?」
「……ちょっと! あなた!」
 玲は走った。後ろから彼女の両親が呼びかける声が聞こえたが、走る事に全神経を集中した。
 追ってくる声は風を切る音に混じり、やがて、消えた。

 

 夜の児童公園にはアーク灯が灯され、木々の緑のコントラストだけをはっきりと映していた。六月も後半に入り、昼間はすでに猛烈な暑さになり始めているが、夜半を過ぎるとまだ空気は冷たい。そこで一人の少女がブランコを漕いでいる。
 玲は立ち漕ぎでブランコに勢いをつける。猛烈な勢いの風が玲の髪を躍らせる。
 遊具の軋みだけが深夜の児童公園の静寂を乱している。
 玲はそのままの勢いでブランコから飛び降り、見事に着地した。
「……いつまでそうしてるつもりですか?」
 ブランコの隣にあるシーソーでは、彼女が膝を抱えて泣いていた。
「あれからずっとめそめそと、付き合っているこちらの身にもなってください」
「…………」
 彼女は泣きはらした真っ赤な目で少しだけ玲を見つめると、また膝のなかに顔をうずめた。また、嗚咽する声が聞こえる。
「しかたないじゃないですか。あなたがいなくなってから十年以上も時がたっているのですよ。誰も責める事はできないです」
「……分かってる」
 彼女は膝に顔をうずめたまま答えた。
 玲は肩を落とし、彼女のもとへ歩いてゆく。
「あなたはこれからどうするつもりなのですか? わたしにはあなたをおばあちゃんの所に連れて行くしか方法が思いつかないのですよ」
 玲は彼女の隣に腰を下ろした。
「未練が無いのにこの世に留まっていても不毛なだけじゃないですか?」
「……」
「わたしも生を受けた以上、いつかは死んでしまいます」
「……」
「だけども、死後の膨大な時間を、意識を持ったまま過ごしたいとは思いません。いつかは、わたしを覚えている人は、向こう側に行ってしまいます。誰も、わたしの事を覚えていない世界で過ごすことは虚無になることと同じじゃないですか?」
「…………いつも分かったような口を聞くんだね。玲ちゃんは」
 彼女は体を起こすと、玲に背を向ける。
「そうやって、知ったかぶりのおりこうさんには私の気持ちは分からないよ」
 玲は深く溜息をつく。
「分かるはずが、ないじゃないですか……」
「じゃあ、どうしてそんな風に人がどうするか指図するのよ!?」
「それは……」
 玲は彼女の背中を見て、黙り込んでしまった。
 彼女はふらりとシーソーから立ち上がると、公園の入り口を目指し歩いてゆく。その足取りは傍から見ていても危うい。
 玲にはその後をついていく事しかできなかった。

 

 二人は夜の街を歩いた。
 彼女はふらふらと、すべての店がシャッターを下ろしたアーケード街を歩く。
 玲はその後ろから、右手に頭蓋骨の包みをささげてついて行く。
 どこにも行く当てなどなかった。二人はこの世界に取り残された孤児だった。

 

 どれだけ歩いただろうか。街の明かりはぽつりぽつりと街灯の明かりだけになり、人影はすでに無かった。
 玲は何も考えずぼんやりと彼女の後ろを歩いていたが、急に彼女が立ち止まったので、ぶつかりそうになってしまう。
 彼女は俯きがちに立ち尽くしている。やがて泣き過ぎてかすれた声で言う。
「もういい……もういいよ玲ちゃん……――私は…………疲れちゃったよ……――」
「…………」
「ねぇ……玲ちゃんのおばあちゃんの所へ行こう……?」
 彼女は玲のもとへ振り返る。涙はすでに渇いていた。
 玲は自分のスニーカーを睨みつけ、指を強く握りしめた。みぞおちの辺りが絞めつけられるのを感じる。玲は怒ったように無言で後ろを向くと歩き始める。
 後ろを歩く彼女に聞こえない様に口の中で、未熟者と呟く。
 周りの世界が全て閉ざされて、無力な自分だけが居るようだった。

 

 その時だった、一陣の陰風が吹く。玲は一瞬にして肌が粟立つ。近くの林で寝ていたはずの烏たちが一斉に飛び立つ。玲の意識の中に鮮烈なイメージが飛び込んでくる。

 

 男、誘拐、恐怖、監禁、陵辱、殺意、哀願、悲鳴、血、死体。

 

 断片的な映像がコラージュの様に一つの記憶を描き出す。玲はその吐き気を覚える情報に耐えられなくなり、しゃがみ込んだ。頭の中に直接、送り込まれてくるイメージは、間違いなく彼女のものだった。頭が割れそうになる痛みに耐え、振り向く。

 

 彼女はいなかった。

 

 

 倉橋は酔っていた。着ている作業着は鉄錆でどろどろに汚れている。醜く皺を刻んだ顔は日焼けをしてる訳でもないのに妙に色黒い。長髪は油染みており、ポマードを付けた様に光っている。
 千鳥足の倉橋はバランスを崩し、電柱にぶつかる。悪態を付き電柱を蹴飛ばした。そのままふらふらと立ち止まり、電柱に放尿する。事をすませると、酔った足取りでガード下へ進む。
 ガード下の橙色の明かりの元で、女子高生が一人、立ち尽くしていた。
 倉橋はなんの興味もなく女子高生の前を歩き去ろうとするが、酔いが入っている事もあり、劣情の炎が立ち上がるのを感じる。
 女子高生へ向きをかえると、酒臭い息を吐きかけながら、声を掛ける。
「ようねぇちゃん、こないところで売りやっとるんか? 男おらんやろ!? 俺はさ、今けっこうもっとるんよ。三枚でどや?」
「…………」
「なぁ……ええやろ?」
 女子高生は倉橋を避けるように歩き始める。倉橋はあわてて女子高生の前に回りこんだ。
「なぁなぁなぁ、ええやろ!? ……なんか話してや!」
「……………………覚えている!」
 倉橋は足元でぐしゃりという音を聞いた。何気なく足元を見ると、足首がありえない方向に曲がっている。激痛が遅れて脳に届く。獣じみた悲鳴が倉橋の口からあふれ出す。
「ぁぁああああああああぁああああああああぁあああああああああああ!!」
 今まで光景を橙色に染めていた街灯が、ばちりと音を立てて消える。
 倉橋は支えを失い、尻餅をついた。その様子を彼女は能面のような無表情で見つめていた。その周囲には青白い燐光が揺らめいている。地の底から響くような声が口から漏れた。
「――……私は……あなたに無理やり襲われた……………………………………………………――――――――私は……ひどい事をいっぱいされた――………………………………………………私は……あなたに家族を奪われた………………………………―――――――――――――――私は……私は…………あなたに殺された!!!!!!」
 倉橋の左腕が急に持ち上がると、捻じ切るかのような勢いで回り始める。倉橋は無数の骨が砕けていく音を聞いた。倉橋はまた絶叫する。倉橋は動かない四肢をむりやり動かして、彼女から離れようとする。だがそれは無駄なあがきだった。
 手足をもがれた昆虫の様に地べたを這いずる倉橋を、彼女は一歩、また一歩と追い詰める。彼女は倉橋のそばまで寄ると、ゆっくりとその首へ手を掛ける。ひっ、と倉橋は声にならない悲鳴を上げる。

 

 ちりんとひとつ鈴の音が響く。

 

 倉橋の首へ手を掛けていた彼女は動きを止める。
 街灯に再び明かりが点る。
 ガード下の入り口に一人の少女が佇んでいた。

 

「…………玲ちゃん…………」

 

 玲は緩やかに歩みを進める。
 その手にはむき出しの頭蓋骨を抱え、もう片方の手で飾り紐のついた鈴を奉げる。制服の少女には不均整な出で立ちであったが、そこには厳かな静寂があった。
 玲は、抑揚のない声で言う。
「……なにを、しているのですかあなたは?」
 玲の目には、憐憫とも怒りともとれない色が浮かんでる。
 彼女は感情が抜け落ちた顔で玲をぼんやりと見返す。
「…………玲ちゃん…………見逃して……お願い……」
 玲は眉間に皺を寄せる。仇でも見詰めるように彼女を睨んだ。
「できるはずが……ないじゃないですか……!」
「お願い……玲ちゃん…………私、この男だけは……絶対に許せない……!」
 玲は鈴を強く握り締めると、声を荒げる。
「……その男が死に等しい罪を抱えているにせよ、あなたが手を掛ければ、あなたの魂は永遠に救われることなく悪霊として彷徨い続けることになる。……わたしはあなたがそうなるのを見たくない!」
 彼女は玲のその言葉を聞いて、頬に一筋の紅涙を流す。
「私がお願いしてるのに……玲ちゃんはいじわるだよ…………玲ちゃんなんか……………………大嫌い!!!」
 彼女は幽鬼の様に立ち上がると、玲の下へ歩き出す。彼女の背後の燐光が一層強まる。
 彼女を睨め付けていた玲は、あきらめた様に首を振る。
 玲が手を薙ぐと、鈴が涼やかに鳴る。
「……未熟だとは御承知で御座いましょうが、根神玲が八百万之神々へ願い乞う……どうか我所願を天聴あれ……。……天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄、心性清浄にして、諸々の汚穢、不浄なし。我身は、六根清浄なるが故に、天地の神と同体なり……――」
 幽鬼が纏う青い光が淡くなる。玲の声が高まってゆく。
「――……諸々の法は影の像に随ふが如く、為す処、行ふ処、清く浄ければ所願成就、福寿窮りなし。最尊無上の霊宝、吾今、具足して意、清浄なり……どうか、この者の咎を……清め給え――」
 鈴の音が凛と響く。
 彼女を包む燐光が消えた。
 彼女は呆けたように立ち尽くしていたが、ぐらりとバランスを崩すと、崩れ落ちた。

 

 玲は焦燥したように駆け寄る。倒れた彼女の体を抱え起こす。
「大丈夫ですか!?」
 彼女は玲の姿を認めると弱々しく微笑んだ。
「……玲ちゃんはさ……本当に優しいんだね」
 彼女は手を差し伸べると玲の顔を寄せる。姉が妹にそうするように玲の髪を撫でる。
「喋らないで! このままだと成仏もできず消えてしまう!」
「もう……いいんだよ…………こんなことしちゃうなんて、私は玲ちゃんのお姉さん失格だね……」
「喋らないでってば!!」
 玲は子供のように泣きじゃくっていた。
 彼女はそんな玲の様子を不思議そうに見つめて、やわらかく笑みを作る。
「私ね……最後に玲ちゃんに会えて良かった……もう満足だよ…………来世があるんだったら、今度は玲ちゃんの赤ちゃんに生まれたいな」
 そういうと彼女は玲の腕の中で霞のように消えた。
 頭蓋骨がばさりと崩れ落ちる。砂のようになった骨は、やがて吹き抜ける風に乗り、どこかへ飛び去った。

 

 

 玲が気がついたときには、倉橋はすでに逃げた後だった。何時間もその場に泣き伏せていたようだ。よろよろと立ち上がると、暗闇に向かい歩き出す。
 夜にはもう朝の気配が混じり始めていた。黎明を告げる冷たい風が玲の泣きぬれた顔に吹き付ける。
 玲の頭の中を占めているのは、泣き虫で、お人よしで、優しすぎる、あの名前の無い幽霊の事だけだった。瞼の底が熱くなると、また涙が頬を濡らす。
 新聞をいっぱいに積んだ自転車が走りぬける。交差点ではヘッドライトを点けた自動車が信号を待っている。街は、新たな一日に向けて胎動を始めていた。
 玲は何度も手の甲で涙を拭う。こんな姿を誰かに見られたくなかった。それでも、どこから湧いてくるのか涙は止まらなかった。こみ上げてくる熱い息を詰めて一言だけ呟く。
「お姉ちゃん…………!」
 また、悲しみの波に襲われ、嗚咽を殺した。

 

 玲が家に着いた頃には、日は十分に昇りきっていた。
 玲は疲れ果てた様子で引き戸を開けた。音を忍ばせ廊下を歩き、二階にある自室へ行こうとする。そのとき障子越しに呼び止められた。
「玲かね? ちょっとおいで」
 玲はあきらめた様に肩を落として、障子を引いた。部屋の中では老婆が落ち着いた様子で座っていた。
「ずいぶんと帰りがおそかったね。あんまりおばあちゃんを心配させるもんじゃないよ?」
「……ごめんなさい」
 おばあちゃんは指で座卓の対面を示した。玲はしぶしぶとおばあちゃんの前に座った。
「さて……前は交通事故の男性の方だったかね……そのまえは恋敗れた女性の怨霊だったかな……。はてさて、今度はとんでもない悪霊に憑かれているかと思ったよ。お連れではないようだね」
「……」
 玲はおそるおそるおばあちゃんの表情を伺う。淡々として穏やかな様子であるが言葉に棘がある。玲はそれが嵐の前触れであることを知っている。
「玲には前も言ったかね? お亡くなりになった方の未練を聞きとげてやるのが私たちの仕事だと。時として御霊の方々はこちらの力量を試すようなことをおっしゃるが、私たちにできることは、その言葉に振り回されず、御霊の方々を正しい道へ導く事なのだと」
「……分かってます」
 おばあちゃんは卓上の陶器の煙草入れから一本とると、マッチを擦り火を点す。
「さて……玲は昨晩はどこへ行っていたのかね?」
「…………ごめんなさい」
 おばあちゃんはため息をつく。
「まったく……玲はしょうが無い子だ。常世の神様から話は伺ったよ。おばあちゃんは本当に心臓が止まるかと思った」
「……」
 まったくとおばあちゃんは繰り返すと、また煙草を吹かす。玲は俯いて話を聞いているしかなかった。
「常世の神様に、危なっかしい孫の事を相談したのだけどね、お前に守護の方が付くことになったよ」
「……えっ?」
 すぱーんと障子が開け放たれる。驚いて玲がそちらを見ると、彼女が立っていた。
 彼女は、ぱぱーんと自分の口でファンファーレを鳴らしながら、くるりと回った。
「ここで地縛霊から守護霊に二階級特進した私の登場です! 見てみて玲ちゃん? おばあちゃんから巫女装束もらったんだよ? 似合う? かっこいい? 玲ちゃんみたいでしょ」
 緋袴姿の彼女は祝詞をぶつぶつと唱え、無闇に御幣をふった。おばあちゃんはやれやれというような目で見て、未だ硬直状態が解けない玲に話しかける。
「なんというかの、玲ちゃんの所に帰るんだと聞き分けがなくて、向こう側でも処置に困っていたのだと。そこで相談した結果、おまえの守護になってもらう事になった」
「…………」
「玲ちゃーん? まだ固まってるの? 私だよ?」
 彼女は玲の頬を指でぷにぷにとつつく。玲は唖然としたまま見つめていた。
 やがて硬直が解けた玲は、彼女が持っていた御幣を奪い取ると、そのまま押し倒した。
「……どれだけ人に迷惑を掛ければ気が済むんですか!? この悪霊! わたしが三途の川の渡し守に直接、引き渡してやる!!」
「痛い! 痛いよ玲ちゃん! マウントポジションは卑怯だよ!?」
 馬乗りになったまま玲は、彼女を御幣でばしばしと叩く。振り返るとおばあちゃんに問う。
「おばあちゃん! 家にこんな悪霊置いておくにはいかないでしょう!?」
「いやの、ちょうど盆は書入れ時で、私一人ではそろそろ辛かったから人手が増えるのはありがたい」
「そんな……だいたいこの家は狭くて部屋なんてないじゃない!?」
「おまえの部屋で良かろう。結構スペースは開いてるんじゃないか?」
「つまり、玲ちゃんの寝顔襲いたい放題…………じゅるり……」
「あなたは黙っていてください!」
「名前が無いままだと面倒だね。生前の名を取って、あなたは根神真輝と名乗りなさい」
「はい! おばあちゃん、ありがとうございます!」
「おばあちゃん!」
 玲は、もう!とすねたように二人に背を向けた。
 彼女は玲にめちゃくちゃにされた髪を整えると、玲の背中に語りかけた。
「待ちきれなくて来ちゃった! 大好きだよ玲ちゃん!」
 玲はそっぽを向いたまま答える。
「わたしもだよ……お姉ちゃん」

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文学フリマに出展します!

A row of Dickens

photo credit:?stopherjones

文学フリマに出展することになりました。

電子書籍・電子雑誌のN.E.Yearsさんの出版するLiBu Graphに掲載される予定です。 タイトルは「ナナシノユウレイ」で椎野樹名義で出展しています。文学フリマにいらっしゃる方は、ぜひぜひ手にとって読んでもらえると幸いです。 ? あらすじはこんな感じです。

 

霊能力を持つ女子中学生・根神玲は、あるとき川原で頭蓋骨を拾い出す。その頭蓋骨の主である女子高生は玲に、家族の元へ連れて行ってくれるように依頼。その途中で彼女の天然に巻き込まれつつも何とか家族の元へたどり着くことができた。しかし…。

 

筋立てはドロドロしているように見えますが、ぶっちぎりのハッピーエンドです。泣きながらほっこりしたい方にお勧めいたします。 ? N.E.Yearsさまで6月15日刊行です。文学フリマのブースはB-05になります。興味をもたれましたらぜひぜひDLして読んでくださいませ m(_ _)m

電子書籍・電子雑誌のN.E.Years

 

ハルヒけいおん!停滞中ですな。。 完成はさせるのでしばしおまちを m(_ _)m

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