東方霽月譚

  東方霽月譚             椎野樹

 

 宵闇の月が中天に掛かる頃、私は一人、邸宅にて、酒が入った湯のみ茶碗を傾けていた。
 濃い紺色に染まりつつある庭では、鈴虫達が涼やかな音色を奏でている。
 私は、薄暗くなる茶の間で、その音に耳を傾けつつ、湯のみにまた酒を継ぐ。薄ぼんやりとした夕暮れには、そろそろ慣れてきたとはいえ、寂寞とした思いに囚われる。
 紫様や藍様と共に暮らしていた時は、この時間帯は夕食時で、一家団欒の賑やかな時を過ごしていたものだ。……遠い昔の思い出とはいえ、あの頃の満たされていた幼心は、未だに忘れられない。
 幼き日々の思い出は、一人となった私の胸を締め付ける様な寂しさを沸き起こしてしまう。
「……思えば、ずいぶんと長く生きた」
 幼少の思い出は、色が付いた様に生き生きと思い出せる。
 妖精たちと共に遊び、いたずらをしては藍様に怒られた事。怒られた事に拗ねてしまい、マヨヒガに家出をした事。寂しくなって結局、夜には八雲宅へ逃げ帰ってしまった。その時は、夜遅いにも関わらず、藍様が寝ずに待っていてこっぴどく怒られた。だけども藍様はその後、抱き寄せて、頭を優しく撫でてくれた。
 思い返すと幻想郷もずいぶんと様変わりをしたものだ。
 史上最も強いと言われた博麗の巫女が亡くなり、スペルカードルールは以前ほど有用な手段では無くなった。それでも幻想郷の管理者として、博麗の巫女は代々受け継がれ、当代の博麗の巫女は、私が後見人として育てている。
 これは思い出したくもないのだが、紫様はある年の冬に眠りについて、そのまま目覚める事は無かった。思い出しても胸が締め付けられるようだ。あの時の悲しみはもう二度と経験したくない。
 紫様が長い眠りにつかれてしまうと、式神としての意味を無くした私と藍様は八雲家を離れた。初め、私はマヨヒガに移り住もうとしたが、それでも、居心地の良い八雲家が忘れられず、またここに戻ってきてしまった。
 それから、勝手ながら私は八雲姓を名乗り、霖之助に頼み、紫様や藍様と同じ式神の服を仕立て、八雲家に住み着いている訳だ。
 紫様は、幻想郷の守り神として博麗神社に祀られている。そのため、八雲紫と博麗神社を柱とした博麗大結界は破られずにいる。
 藍様は、……私はあれから長いこと再会した事がない。
 長いこと思い煩っている内に、庭は、漆黒の闇へと包まれていた。蛍の光が庭木に宿り、ふわりふわりと燐光が踊っている。
 酒瓶を手に取り、残りを継ごうとすると中身が無い。酒が切れたようだ、明日、人の里で木天蓼《またたび》酒を買ってこよう。

 

 次の日、私は人の里に降りるついでに博麗神社を訪れた。
 境内から少女達の賑やかな声が聞こえる。その声の主は、光の三妖精と博麗の巫女だった。
 サニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイアの三者は、それぞれ昔と変わらぬ小さな少女の姿だ。妖精はそれぞれの根源となる精気からなる存在で、どれだけ経っても姿が変わることはない。
 当代の博麗の巫女は、博麗の血統から選ばれた十歳の少女で、おかっぱ頭に大きなリボンを付け、くりくりとした目が特徴的である。服装は博麗神社伝統の巫女服である。その名を博麗魅月という。
 彼女たちは、何やら花火で遊んでいるらしい。少し離れた私の所まで硝煙の焦げた匂いが漂ってくる。
「だからさ、このヘビ花火に火をつけると、みょーんって伸びるんだよ」
「うわー、気持ち悪いよ。もっと綺麗な花火は無かったの?」
「うーん、手に取れる分を適当に取ってきただけだからね。もっと大きな花火は持ち運べなかったんだよ」
 なにやら遠くで聞いている分でも、また人間の家から盗みを働いたらしい事が分かる。少し、注意してやるべきかもしれない。
「こら、お前たち、何をしているんだ?」
「橙さま、こんにちわ」
「あっ、化け猫!」
「橙だよ。勝手に大きくなった化け猫だよ」
「ふんっ、だ、化け猫風情に私達が何しているか言う必要はないわ!」
 光の三妖精は生意気な口を聞く。懲らしめてやる必要があるだろう。
「へぇ爆竹か。懐かしいな。貸しなさい」
 サニーミルクから爆竹をひったくると、妖精たちの輪の中心にあった蝋燭で火を付け、妖精たちの方へ放り投げる。勢い良く導火線が燃えた爆竹は、大きな音を立て弾け飛ぶ。
「うわぁ! なにするんだ!」
「化け猫が暴れだした!」
「ここは一時撤退よ!」
 光の三妖精は爆竹に恐れをなし、風を巻いて逃げ出した。大音響で響いた爆竹の後には、境内に静寂が取り戻される。境内には、私と魅月だけが残っていた。魅月は少しうろたえた表情をしている。
「魅月? 妖精どもと遊ぶのはいいけれども、いけない事をしているようならば注意してやりなさい」
「はい、ごめんなさい、橙さま」
 魅月は、目に涙を一杯に溜め、こちらを上目遣いに見上げる。正直言って、たまらなく可愛い。私にはまだ子供がいないが、母性本能がくすぐられるというのは、この子の事を言うのだろう。私は無意識の内に微笑んでいたに違いない。
 魅月の頭に手をやり、そっと撫でる。さらさらの髪が掌をくすぐる。魅月の顔を眺める。先ほどの不安そうな表情はどこかへ行ってしまったようだ。
「いいか魅月? 友達というのはな、いつも楽しく遊んでばかりだとは限らないんだ。悪い事をしている時は注意してやるのも友達というものだぞ」
「はい! 分かりました橙さま」
「よし、魅月はいい子だ」
 また魅月の頭を撫でてやる。幻想郷の懸案事項として、この子の後見人をしてやっているがこの調子ならば大丈夫だろう。
 そういえばそうだった。大事な用事を忘れる所だった。
「この所変わった事はなかった?」
「そういえば、蝙蝠が手紙を運んできました」
 魅月は履物をそこそこに脱ぎ捨てると、社務所の中にぱたぱたと駆け込んでいく。奥から駆け戻る魅月の手には、真紅の封筒が握られていた。
 魅月から封筒を受け取った私は、封を切り、その内容を黙読する。
「ふーん、フランドール・スカーレットの誕生パーティのお誘い、か。博麗神社にも届いていたんだな」
「どうしましょうか? 橙さま。紅魔館の主のお誘いだし、わたしも行ったほうがいいんでしょうか?」
 私は少し沈思黙考する。魅月は影響を受けやすい年頃だ。あまり、自由奔放すぎる妖怪たちと交わり過ぎるのも考え物だろう。ましてや、あのスカーレット姉妹は、幼い子供には悪影響が過ぎる。
「いや、紅魔館のパーティには、私が出席するよ。魅月は行かなくてもいい」
「でも、折角のお誘いだし、わたしも紅魔館の中を少し覗いてみたいかも……」
「魅月、世の中にはな、染まると困る種類の妖怪もいるんだよ。見習うんであれば、寺子屋の慧音先生の様な人と付き合う方が良い」
「ちらりとレミリアさんをお見受けしたことはあるんですが、そんなに酷い人なんですか?」
「あー……、大人の話だよ。よその人に私がこんな事を話していたなんて言っちゃだめだぞ?」
「そうなんですか? 分かりました」
 「お茶をいれますね」と魅月は社務所の中へ駆け戻っていく。よくできた子だ。私は縁側に腰掛ける。
 境内には早い蜩の声が鳴り響いている。雲の影と共に涼しい風が吹き抜ける。どうやら今年は熱い夏になりそうだ。

 

 手紙に書かれた指定の日、私は紅魔館を訪れた。
 館の中は、以前も見たように豪奢な家具や絵画類が配置されている。今日はパーティの為か、立食形式でディナーが並べられている。妖精メイドたちは、訪れた来訪客にワインが入ったグラスを手渡す。
 受付をしていた紅美鈴に手紙を差し出し、少し立ち話をした。
「橙さん大きくなりましたねー、以前はこのぐらいしか無かったのに、いつの間にか身長抜かれてしまいました」
「いえ、まだほんの子供でしたから。美鈴さんはいつまで経っても若々しいですね」
「私の種族はこれで成人型ですからね。これ以上、成長することはないんです。いやなんだかいろんな人が成長しているのを見ると、私がおばあちゃんになった気分です」
「そんなものですか?」
「愚痴っぽくなっちゃいました。今日はパーティを楽しんでいってください」
 美鈴さんは笑顔で手を振ると、また来客した人の元へ颯爽と歩いていった。
 辺りを見渡すと、いつもの幻想郷の面々が勢揃いしている。
 プリズムリバー三姉妹は、小高い舞台の上でソナタを奏でている。
 あの紳士然とした姿は、リグル・ナイトバグだろう。彼女もずいぶんと成長したものだ。ワインを一杯引っ掛けた風見幽香にまた怒られていた。
 群衆から少し離れた所でチェス盤を囲んでいるのは、パチュリー・ノーレッジとアリス・マーガトロイドだ。パチュリーは書物から顔を上げず、自分の順番になると指先だけで魔法を使い、チェスを動かしている。物ありげに霧雨魔理沙がチェス盤を覗き込んでいる。彼女は捨虫の法を覚え、魔法使いになったのだという。三人の熱狂の仕方は、大方、マジックアイテムでも賭けているのだろう。
 群衆がざわめき立つ。どうやらパーティの主役の登場のようだ。スカーレット姉妹が洋館中央の吹き抜けの階段を静かに降りてくる。
 レミリアは、胸元が大きく開いた派手な真紅のドレスに、頭にはこれまた赤いシルクのカチューシャを身に着けている。
 フランドールはレミリアに手を引かれ、後ろからしずしずと付き添う。レミリアほど攻撃的な衣装ではないが、フリルが数多く使われた赤色のドレスを身にまとっている。
 紅魔館の女主人は軽やかに腰を折り、一同に挨拶の台詞を語る。
「ごきげんよう。本日は、我が一族のフランドール・スカーレットの記念すべき日にご来場頂き、誠に有難うございます。ささやかながら祝宴の席を設けさせましたので、ご歓談ください」
 一同より拍手が巻き起こる。レミリアはスカートをついと持ち上げ腰を屈めた。会場には和やかな空気が広がる。
 一応、挨拶と共に魅月の代理であることをレミリアに告げないといけないだろう。場が歓談の空気になったので、私はレミリアに歩み寄った。
「やあ、レミリア。フランも誕生日おめでとう」
「あら橙。来てたのね」
「どうも、わざわざ有難うございます」
 レミリアは相好を崩す。フランドールは固い微笑みを作る。思えばこの姉妹もずいぶんと丸くなったものだ。フランドールは一時期、神経質で地下室に閉じ込められていたものが、気質が丸くなった途端、引込み思案な性格になってしまい、レミリアに連れてもらわないと屋敷の外の住人には馴染まない様になってしまった。レミリアも色々と手を尽くしているようだが、なかなか治らないようだ。
「今日は博麗神社の代理も兼ねていてね。魅月からもおめでとうということを伝えて欲しいとの事だよ」
「あら、それはどういたしまして。あのちびっ子巫女は元気にやっているのかしら?」
 これは意外だ。あの高慢だったレミリアが人間に気遣いできる様になっている。
「元気にやってるよ。最近は元気すぎてね。御すのに苦労してるぐらいだよ」
「それは十全ね。なかなか好みのタイプの体つきをしてるから気になっていたのよ」
 レミリアの顔つきが一気に卑下たものになる。下品な目付きで舌なめずりをする。
「ほら、最近、私達も適齢期じゃない? 人間の下僕が欲しくなってきたのよ。あんな風にお尻をふりふり歩いていたら、はっきり言って性欲を持て余すのよ!」
 …………。前言撤回。コイツを魅月に会わせるのだけは絶対に駄目だ。
「お姉さま! そんなはしたない事は言わないでください!」
「あらフラン。貴女、妬いているのね。貴女だって昨日の夜はあんなにいい声で鳴いていたじゃない。熱いベーゼが欲しいのかしら?」
「あっ……、お姉さま、こんな人前でっ……!」
 レミリアはフランの胸元を激しく揉みしだき、二人は熱い吐息で口付けを交わす。
 駄目だ、この変態吸血鬼姉妹。魅月を連れてこなくてつくづく正解だった。

 

 挨拶もそこそこに紅魔館を後にする。
 結局、スカーレット姉妹はあのまま絡み合い、まともに話に応じ合う事は無かった。天狗のブン屋がカシャカシャとカメラを撮り出したので、そのまま放置してやった。
 私は、人の里の目抜き通りを歩き、八雲家へ帰路に着く。すると道の向こうから人間の友人が歩いてくるのが見えた。
「散歩ですか? 阿正」
「ん? 橙かね。気晴らしで外の空気でも吸いたいと思ってね」
 彼女は稗田阿正。人間の立場で妖怪の記録を記している稗田家の現当主だ。紫色の和服の合わせを着て、学究者特有の落ち着いた雰囲気を保っている。濡れたような黒髪を掻き上げると、憂いを秘めた瞳をこちらに向ける。
「君は、どうしてこんな所を歩いているのかな?」
「丁度、紅魔館のパーティの帰りです」
「成程、あの吸血鬼姉妹の誕生パーティか。それは興味深い。是非ともその内容を聞かせてもらいたいものだね」
 阿正は、期待に満ちた目で見つめてくる。正直勘弁してほしい、あの姉妹の記憶は早く忘却の彼方へと押しやりたい所だ。
 阿正の好奇心に押し切られる形で、渋々、紅魔館であった出来事を語る。
「成程ね。丁度、今頃の歳が吸血鬼の発情期なのだろう」
「里の人間も警戒すべきでしょう。特に幼い子供はレミリアの前には出さない様にするべきですね。拐かされたりしたら知れ切った往生をするだけです」
「ふむ。里の人間たちには私から話しておこう」
 阿正は、服の合わせから手帳と筆を取り出すと、さらさらと記帳する。まぁ義務は果たした。それはともかくと、阿正は続ける。
「ここで君と出会ったのは好都合だった。博麗神社と君に招集が掛かっていてね、また、はぐれ物の妖怪が人間を襲っているんだ」
「またですか。会ったのが私で良かった。魅月はまだ使い物にならないですから」
「そうですか……。ですが……」
 阿正はそこまで言うと、眉根に皺を寄せて黙り込んだ。話しづらそうに口を開く。
「……襲ってくる妖怪は化け狐です。首領は白面金毛九尾の狐」
 まさかそれは……。嘘だ。誰よりも優しかった彼女が人間を襲うはずがない。彼女は誰よりも幻想郷の調和を求めて奔走した妖怪のはずだ。
「つまり、倒すべき相手は八雲紫の元式神。八雲藍です」
「…………嘘だ!」
 私は、親の敵の様に阿正を睨みつける。阿正はそんな私を憐れむが如き目で見つめた。
「……君が、八雲藍を母親の様に思い慕っているのはよく知っている。しかし、人間達の中には、その姿を見たものが居るのだよ」
「なぜ……藍様が……」
「理由は分からない。しかし、相手は傾国の天狐・九尾の狐だ。このまま放置する訳にもいかない」
「…………」
 袖口から手巾を取り出した阿正は、私に手渡す。ふと目元に手をやると、雫がぽろぽろと溢れている。
「君の気持ちは分からなくもない。だが、私は人の里を守らなければならない。それには君の協力が必要だ」
 阿正は踵を返すと今来た道を帰る。
「いずれにせよ、君と博麗の巫女には、里の集会へ来てもらう事になるだろう。君は優し過ぎる。私にはそれが命取りにならないか心配だよ」
 阿正は、振り返らずに歩いていった。私は、阿正から受け取った手巾が湿っぽくなったにも関わらず、泣き濡れてその場を動けずにいた。
 ……藍様。生き別れた藍様は、何時の日か八雲家に帰ってきてくれて、成長した私を褒めてくれるのではないかと思っていました。そのために、私は幻想郷の調和を守るために一人、走り回っていました。藍様。何故、こんな形で再会しなければいけなかったのですか?

 

 私と魅月は、人間達が化け狐の対策を立てる為の集いに招かれた。
 里の集会所は板敷の古い小屋で、光源は所々に置かれた蝋燭のみで薄暗い。戸が開放されていないためか、蒸し暑く、集まっている人々も手ぬぐいで汗を拭っている。
 人々は車座になって座っている。私と魅月は、人々が座っている板間から一段高くなった座敷へ並んで座していた。
 里の人間達は、苛立ちと焦燥を隠せないでいる。仕方のない事だろう。話を聞く限りではもう三人の人間が妖狐に拐われて姿を消しているという。
「……だから! 鉄砲を揃えて化け狐の巣を襲うべきなのだ!」
「それだけの犠牲をどうするつもりだ! 化け狐には鉄砲も通用しないかもしれないのだぞ!」
 私は、上の空で人間達の話を聞いていた。ここ数日、思うことは藍様の事ばかりだった。
 集会の人間達は加熱している。青年の一人が立ち上がり、叫ぶ。
「博麗の巫女はどうした! こんな時の為にお前は居るのだろうが!」
 急に名指しで弾劾されたため魅月は狼狽えた。
「わ……私は、里に争いが無いように努力しました。天香香背男命《あめのかがせお》を封じる儀式もちゃんとしましたし、今年の凶兆はないはずです」
「ふざけるな! お前はこの事態をどうするんだ! お前は里に住んでいないから、そうやって日和見で見てられるんだ!」
 魅月を責める青年に、協調する者も出てきてきた。つい苛立ちが前に出てしまう。こんな十歳の女の子一人を、大の大人が数人がかりで責めるなど、あっていいはずがない。
「いい加減にしろ。お前たち人間の側に、一番、寄り添っているのはこの子だ! 里を守ってもらう代わりに、神社を支えると約束したのはお前たちのはずだ」
 半ば、喧嘩腰で立ち上がっていた青年は、「化け猫が」と捨て台詞を吐くと、集会所の外へ出ていった。残った人間たちにも白けた空気が流れる。
 魅月の表情を見ると、俯き加減で下唇を噛み締めている。今は慰めている暇などないだろう。
 座の中でも年嵩の男が立ち上がり、私に向き直り、朗々とした声で語りだす。
「ならば、橙様。この幼き博麗の巫女の代わりに、あの化け狐を討ってはいただけませぬでしょうか? 貴方様の力であれば、それは叶わぬ願いではないはず」
「……無論、私はそのつもりです」
 一同におお、との声が広がる。中には、立ち上がり拍手をする者もいる。
 反吐が出る。幼い魅月を人身御供に捧げ、自分達の力では何もできないくせに、保身に長けた人間共。藍様もこんな事があったのだろうか?
 座談は、酒が入った宴会に早変わりした。人間達が酒を注ぎに次々とやって来る。私は気が休まる事もなく、座が空けるのを待つだけだった。

 

 気がつけば、いつの間にか足が博麗神社に向かっていた。昨日の集会で傷心した魅月をそのままにする訳にはいかない。
 鬱々と山の傾斜に作られた階段を歩く。私自身、藍様の事が一時も頭から離れず、煉獄に囚われた様な沈鬱な時間を過ごしている。ここを訪れたのはその気分を払いのけたい為でもあった。魅月の顔を見たら、少しは気も晴れるだろう。
 長い階段を登り終えた。博麗神社の境内を見ると、魅月は一人で縁側に腰掛けている。
 その少女の目元は、泣き明かしたのか赤く腫れている。やはり、そのまま帰したのは失敗だったか。
「やあ、魅月」
「…………橙さま!」
 魅月は駆け出すと、私の胸に飛び込んできた。そのまま腕の中で、えぐえぐと泣きだした。私は、魅月を抱きしめて、優しく肩を叩いて上げる。
「わたしは……神事もちゃんと出来ないし……――妖怪退治も出来ないし…………」
「はいはい、分かってるよ、辛かったな魅月。お前が頑張っているのは、私がよく知っている」
 普段、ちゃんとしているように見えて、こんな所は普通の女の子だ。無理を強いる、里の人間たちが悪いのだ。
「里の……化け狐退治も、――……橙さまに押し付ける形になってしまって……」
「……仕方のない事だよ」
 あの場を切り抜ける為にはそう言うしかなかったし、里の人間の為に妖怪と戦うのは私ぐらいしか居ない。
「そもそも、ちゃんと魅月が大きくなるまでは私が守る役割だ」
「でも、いつまでも橙さまに守られている訳にはいきません」
「私の事はいいんだよ。いつか魅月が返してくれればいい」
 魅月は、涙を一杯に溜めた目で、私の目を直視して言う。
「約束します! いつか立派な巫女になって、橙さまに恩返しをします!」
「…………そうか。いつの日かそうなると、私も嬉しいよ」
 涙でぐしゃぐしゃになったまま笑みを作る魅月を見つめて、私の幼い頃と重ねていた。今の私には、こんな純粋な笑顔は作れない。
 里の化け狐は、満月の夜に姿を現すという。月はもう小望月《こもちつき》まで満ちている。明日は満月だ。
 私は、大人になった今、藍様に会って、何と言えばいいのだろう?

 

 満月の晩、丑の刻頃、私は、魅月と共に里の入り口に当たる場所にある小屋の中に居た。
 夕刻から降り続いていた雨は、子の刻には止み、天を強い風が吹き、雲を吹き散らしてくれたお陰で、光風霽月な夜になっている。
 周りの空き小屋の中にも、鉄砲を持った里の若者たちが詰めている。
 化け狐は未だ現れない。辺りは月夜が照らす銀色の世界。伝令を務める若者の潜め声しか聞こえない。
「橙さま。化け狐はまだ現れないのでしょうか?」
「魅月、あなたまで待ち伏せしている必要は無い。眠たければ寝てしまいなさい」
 魅月をこの場に連れてくる事は、反対だった。しかし、博麗の巫女として役割を果たすとの、魅月の強硬な意見を渋々と飲んだ。いつか、巫女の役割を果たすのならば、こういった経験もしておく必要はあるだろう。
 息を潜めてしばらくすると、動きがあった。
「狐火が近づいてきます!」
 伝令の若者が示す方向を見ると、青白い炎がちろちろと漂いながら近づいてくる。
 来たか。来る時は呆気無いものだな。そんな事を思いながら、小屋の戸を開け放ち、外に飛び出す。
 通りの向こうに二三の狐火が揺らめいている。白銀の明るい夜道に、人影が現れて、次々と数が増えていく。背中に里の若者たちの騒ぎ声を聞きながら、現れた人影を睨んでいた。
 現れた一行は、金色の髪の毛を月光で照り返しながら、狐の尻尾を生やした、人形で有りながら人間では無い、化け狐の一団だった。男の化け狐は、里の人間を見て笑い出す。
「わざわざ山を降りてきたぞ人間ども。酒と肴でも用意してくれたのか?」
 周りの化け狐も同調して笑う。里の若者の一人が、前に進み出て叫ぶ。
「てめえらに飲ませる酒なんぞあるか! 鉄砲玉でも喰らえ!!」
 若者の掛け声で、何十丁もの火打銃が轟音と共に鉛玉を吐き出す。
 濛々とした硝煙の煙が、風で吹き流されていくと、そこには化け狐の一団が変わらずに立ち尽くしていた。若者たちは焦れた様に大声で話し合う。
「鉄砲じゃ効かない!」
「構うか! 刀で斬りつけろ!」
 若者たちは各々、刀やナタなどを抜き放つと、化け狐に切り込もうとする。
 ここ辺りが潮時だろう。人間と妖怪では地力の差で敵うはずが無い。無駄な犠牲は出せない。大声で里の若者たちに話しかける。
「待て、里の集! ここは私が敵の首領と決着を着ける! 少し下がっては貰えないか?」
 若者たちは、お互い頷き合い、道を開く。私はできた道を踏み締めながら前に進んだ。念の為に、普段より大きく爪を尖らして。
「聞け、化け狐ども! 私は里の代表の八雲橙だ! 決着を着ける! 首領を出せ!」
 化け狐達がざわめき立つ。あちらでも伝令なのか、一匹が後部へ走っていく。しばらくすると、化け狐の一団が割れて、間から一匹の妖狐が姿を現す。
 私は思わず歯噛みする。やはりそうなのか。今まで漠然としていた不安が現実となった。
 現れたのは美しき天狐。藍染めの衣に身を包んだ、白面金毛九尾の狐。他ならぬ八雲藍だった。
 全てを詳らかにする月光の下で、私と藍様は対峙する。
 先に口を開いたのは藍様だった。
「……橙か? 何故、里の人間などに肩入れする?」
 不自然に息が荒くなる。威嚇する様な声が喉から溢れでてくる。
「藍様。私は、幻想郷の調和を守るために紫様と藍様の後を継ぎました。どうか狐たちを引いて下さい。私はまだ、貴女を殺したくはありません」
 藍様は少し身を引くと、困ったような表情をする。
「そう、あなたはあれから300年も経ったのに式神としての命を守り続けているのね。聞いて橙。本来、妖怪は自然と寄り添い、ねぐらにする者たち。自然を荒らす人間とは相容れないもの。あなたも妖怪だからわかるでしょう?」
「…………」
「一緒に来ないか? 橙? 私は今、妖怪の山の麓に住んでいるわ。楽園のような暮らしには程遠いかもしれないけど、仲間たちに囲まれて楽しくやっている。きっとあなたの事も受け入れてくれるわ」
 私は、藍様の言葉を聞いて、懊悩に囚われる。また藍様と昔のように生活できるかもしれない。それは掛け値のない提案に思えた。
後ろに居た里の若者たちの間で騒ぎ声が広がる。振り返ると、魅月が飛び出してこようとしているが若者たちに肩を掴まれている。
「魅月!」
「行かないで下さい橙さま! 橙さまが居なくなってしまったら私はどうすればよいのですか!」
 力強く抑え込まれているのにもかかわらず、魅月はいまだこちらに飛び出そうとしている。そうだ、私にはもう魅月という存在がいる。かつての様に勝手気ままに暮らし向きを変えることなどできない。
「藍様、私は人間達を見捨てる訳にはいかないのです。私がいなくなるだけで悲しむ者がいる」
 藍様は、魅月と私の顔を見比べると、情けないように溜息を付いた。
「…………はぁ。なんでアンタは私とそんなとこばかり似ちゃったのよ。しかたないわね、力づくで拐っていくわよ!」
 辺りの空気が一変する。藍様の周りで狐火が回りだす。私は突進できるように足場を踏み均す。
 刹那、狐火が飛び込んできて足元で炸裂する。私は既に踏み出しており、背後から爆風を受ける形で突き進む。
 爪を尖らせた右手を突き出して、藍様の元へ疾走する。藍様は手をかざし狐火を操るが、遅い! 飛んでくる狐火を左右に躱し、藍様の脇を走り抜け、背後で土煙を立てて停止する。
「……浅いか」
 藍様の右肩の部分が裂けており、そこから血がにじむ地肌が覗いている。振り返りざま藍様は宙に飛び上がる。私も後を追い飛び立つ。
 夜空で私達二人は並走する。私を見て、藍様は目をきらきらと輝かせる。
「凄いな橙。そこまで疾さを極めたか! だけど弾幕はどうかな?」
「甘くみないで下さい。伊達に今まで幾度と無く戦いを経験している訳ではありませんから。子供の頃と一緒にしないでください」
「私にとってアンタは、いつまでも寝小便して泣いてた子猫ちゃんだよ!」
 そこで一旦、私と藍様は距離を置いて離れる。
 藍様が手を一薙すると、青白い狐火の群れが私に向かって殺到してくる。私は回転しながら狐火の群れをやり過ごす。スペルカードを一枚取り出して、宣言して放つ。
「凶兆『壁に塗りこまれた黒猫』っ!」
 真っ赤な閃光が藍様を囲い込む様にして放たれる。
「はっ! 甘々ね!」
 藍様はジグザグ機動で閃光を躱す。いまだ! 両手を向けて巨大な光弾を放つ。光弾が炸裂すると大音響と共に衝撃波が伝わってくる。
 やったか? 爆風が収まると、私は目を凝らして爆心地を見つめる。
「創意工夫は認めるけど、スペルカードの出来としてはイマイチだわ」
 気がつくと背後に居た藍様は、私の耳元で囁く程の距離にいた。
「さぁ、捕まえた!」
「くっ……! 何をするつもりだ!」
「私も、引っかき傷作られて頭にきてるから、お仕置きさせてもらうわよ!」
 藍様がそう言うと、天と地が逆転した。猛烈な勢いで地上が近づいてくる。藍様に抱えられたまま、私は地面が砕ける勢いで叩きつけられた。
「かっ……はっ……!」
 肺の空気が全部絞り出される。夜空の月が何個にもばらけて見える。立ち上がらないといけない。だけど手足に力が入らない。
 そんな私の姿を見て、藍様はにっこりと微笑んだ。
「さぁ、一緒に来てもらうよ。橙?」
「…………」
 藍様は肩を貸す形で、私を立ち上がらせようとする。ぼやける視界の中で、一人の少女が駆け寄るのが見えた。
「橙さま!」
 魅月。駄目だ、近寄っちゃいけない。色素の薄い世界の中で、魅月の泣き顔だけがはっきりと見える。
 魅月はその小さな身体で、私を藍様から引き離す為に引っ張る。藍様はそれを意外そうに見つめた。
「あなた……その衣装は博麗神社の物。そうか、あなたが現在の博麗の巫女なのね」
「橙さまを離せ、化け狐! 橙さまを拐わせはしない!」
 藍様は、魅月の頭に手を伸ばす。あまりの事態に私は飛び出しそうになったが、落下の衝撃で体が自由に動けなかった。
 すると、藍様は魅月の頭を撫でた。目線を同じ高さにして魅月に話しかける。
「いやー、魅月ちゃんか、可愛いなぁ。橙が骨抜きになるのも分かるわー。橙も昔はこんな時期があったんだけどなー、今はこんな唐変木になっちゃって」
 きょとんとしている魅月をよそに、藍様は話し続ける。
「しかし、歳取るのは面倒だと思ってたけど、意外な事にも出会うもんだね。立派になった橙には会うし、ついでに孫みたいな子も出てくるし。今日は満足だよ。帰る」
 私を座らせると、藍様は狐達がいる方向へ歩き出す。そのまま行ってしまうかと思うと、思い出したように振り返る。
「あー、そうそう、ちょいちょい遊びに行くから用意しておいてよ、橙! 魅月ちゃん泣かせたら許さないからね!」
 言いたい事だけ言い終わると、藍様はそのまま狐たちを引き連れて暗闇の中へ歩み去ってしまった。
 後に残された私たちは、拍子抜けして座り込んでいた。
「行っちゃいましたね、橙さま」
 魅月や里の者たちに傷ひとつないのは良かったが、予想以上に私の身体の損傷が酷そうだ。全身の軋む痛みに耐えかねて、呻き声を上げる。
「橙さま! 大丈夫ですか!?」
 無理せずここは休んで置くべきだろう、横たわると一面の星空と満月が見えた。こうしていると、宇宙と私が繋がっている様に感じる。魅月は心配そうに顔を覗き込む。
「……情けないなぁ。守るはずの魅月に守られちゃうし、藍様には情けをかけられてしまった」
「そんなっ! 橙さまが居ないと化け狐はどうしようもありませんでした。橙さまは良くやりました!」
 魅月は無邪気な笑顔で微笑んでくれる。今はそれだけ守れた事でも、良かった。
 いずれまた、藍様とは出会うことになるだろう。その時、もっと笑って、家族のように話し合えれば良いのだけど。

 

 身体が癒えてしばらくした日のこと、博麗神社を訪れるため人の里を歩いていると、稗田阿正と出会った。
「やあ橙。身体の調子はもう大丈夫なのかね?」
「まずまずと言った所だよ。打たれ強いのも取り柄だからね」
「この度はありがとう。あれから化け狐が人の里を襲うことは無くなったそうだよ。里の人間を代表してお礼をいうよ」
「いや、お礼を受けるのは私ではなく魅月だ。彼女が居なければ藍様を退ける事は出来なかった」
「ほう、そうなのかね?」
 阿正は顎に手をやると、不思議そうに首を傾げる。私はそんな阿正の様子に微笑みを返した。
「まぁ、その内、博麗神社にも里の者がお礼に行くはずさ。今回は随分と失礼な事もしたようだが、魅月もみんなに認められる様になるだろう」
「そうですね。そうなるのが一番です」
「ふふっ、君は本当に魅月には甘い。それでは失礼するよ」
 阿正は、一礼すると去っていった。
 私は阿正と別れると、一路、博麗神社を目指す。

 

 博麗神社の境内まで登ると、魅月が縁側に腰掛けているのが見える。足をぶらぶらとさせて、退屈を持て余しているようだ。
「あっ、橙さまだ」
「久し振りだね魅月。何か変わった事は無かったかい?」
「それが……」
 魅月は、困ったような顔で社務所の中を指さす。そこには枇杷が山積みになっていた。
「山の化け狐……いえ藍さまが、お土産で持ってきた物です。また、遊びに来るそうです」
「藍様が来ていたのか!? それで魅月は何と答えたんだ?」
「その……博麗神社は人間や妖怪だろうと何時でも開かれた神社だと……」
 思わず私は眉間を押さえた。いくらなんでも危機感が無さ過ぎる。まぁ、それが魅月の良い所だ。
「……まぁ、済んだことは仕方ない。しかし、知らない妖怪には注意するんだぞ。危ない連中はいくらでも居るんだからな」
「はい。でも、藍さまは危険な人には思えないのですが?」
 そうか、魅月は私と藍様の関係を知らないのか。説明する暇など無かったし。
「藍様は、私が式神だった頃の元主人だよ。家族も同然の人だ。私がいる限り魅月に危害を加えることは無いだろう」
「そんな……、恩人の方と喧嘩してたんですか? 悲しすぎます」
「今回はお互いの立場が対立しただけさ、いずれ謝りに行くよ」
 いつか、妖怪の山にいる藍様の元を訪れなければいけないだろう。話したい事は山ほどある。魅月の事も気に入ってくれたようだし、魅月を連れて藍様に会いに行ってもいいかもしれない。
 境内は木漏れ日が溢れて、風の色まで緑色に染まっている。思わず私は空を見上げ、木々から漏れてくる光に目を細める。
「あっ!」
 どうやら妖怪の山まで行く必要は無くなったようだ。藍色の衣に身を包んだ九尾の狐が空から降りてくるのが見える。
 私は、魅月と共に、空に向かい手を振った。

 

 

 博麗神社に、猫と狐の二柱の式神を使う巫女が現れるのは、それからしばらくしてからである。それ以降、人間と妖怪の争いは止み、幻想郷にはしばしの平穏が訪れた。

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